酒をやめれば、「人生が二度あれば」てなことにはならないよね、という話

酒やめて、1512日。

働くだけが人生、の時代もあったのですね

一昨日、「飲酒行為」と「いろんなことを経験する」はトレードオフの関係にあるといった話を書かせていただきました。同じようなことを以前も書いていましたね(参考「人生は「酒を飲む」か「いろいろやるか」のオルタナティヴである件」)。繰り返しで申し訳ないですが、これは本当の本当の実感でもあります。

で、本日も「また」ではあるのですが、ちょっと深掘りしたい気もしてますので書かせていただきます。

井上陽水の曲に『人生が二度あれば』(YouTube)というものがあります。若い人は知らないだろうなあ。確か私が小学生当時に発表された曲です。隣の家に下宿していた大学生から教えてもらった記憶があります。小学生だったから曲の意味というか趣旨は実感できませんでしたけれども、ただ世間では名曲とされていました。

歌詞内容は、かいつまんでいうと、お父さんやお母さんが苦労を重ねて、やっと余裕ができる頃になったらもう年老いていた、ああ人生が二度あれば、というものです。曲の途中で陽水が涙声になることも話題になっていました。

陽水のお父さんお母さん世代においては、それが本当の本当の実感だったのでしょう。でもだんだん豊かになってきて、いろんなことを一度の人生で経験できるようにはなっています。今後、どうなるか分かりませんけれども。

せっかく、経験の多様化が担保される時代になったのだから!

そうした、ある程度の豊かさに裏付けられた経験の多様性を一度の人生で味わえる時代になったというのに、これを徹底的に阻害するのが酒ですよ。これも本当に本当に実感します。

ですから今、私は「人生が二度あれば」的な思いを抱いています。陽水のお父さんお母さん世代は働くだけでせいいっぱいだった、でもようやくそうではない時代になった、その時代を生きられ、多様な経験をするチャンス恵まれたのに、それを酒でつぶしてしまった。後悔しています。自己責任であり、もちろん陽水父母と同列にしてはいけないのですけれども。

でもやっぱりこの齢になって、酒で潰した時間とお金を使っていろんなことを経験しておきたかった、あるいは子どもにいろんなことを経験させたかったとせつに思いますよ。

逆に言えば、早いうちにそのことに気づき、酒をやめて、経験の多様化ということに自分の人生を振っていれば、人生が二度あればならないということですよね。

ジジイの老婆心(老爺心?)から言わせていただければ、本当に人生は一度きりで、経験が多ければ多いほど豊かなものになります。そしてさらに下衆なこと(?)を言えば、そういう経験を発信して資産にも変えられる時代になっています。

それを徹底的に潰すのが、繰り返しますが酒という存在でありますよ。飲んでいる時間がマッハで過ぎ去っていくのは当然としても(参考「断酒には「光陰矢のごとし」をストップさせる力がある!」)、そうでない時間でもなんとなく頭がぼーっとしていたりで「使える時間」が少なくなります。当然、仕事の効率も悪くなるでしょう。

何度もすみませんが、そのように時間を浪費したり、濃いものにできなかったのがもったいないですし、酒を飲むことに費やしたお金ももったいないです。もっといろんなことをやっておけばよかったなあと重ね重ね思います。

だから、まだ引き返せる若い人が本当にうらやましい。ジジイを反面教師にしてほしい、と。教訓がましいことを言って申し訳ありませんが。

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