アフターコロナにおいては、酒飲んでもいい人と酒飲んでる場合じゃない人の色分けがますますはっきりするよねという話。

酒やめて、1514日。

「どんどん飲んじゃってくださいよ」になれる人はいいけれど……

コロナという状況下では、飲酒文化もかなり様変わりしてきていて、そうした中、我々断酒者の敵(?)である酒造会社も知恵を絞っているようです。たとえば「「ぐびぐび飲んでしまう」と話題の果汁100%缶チューハイ、神戸の製造元に訊いた」といったものですね。なんとか飲酒の入り口を拡げ、酒の世界に引きずり込もうとしていて、敵ながらやるものです。

私がTwitter上で勝手に断酒仲間認定させていただいているMJさん(ブログ)も以下のように、その危険性を指摘しています。

もちろん飲食店も様変わりを余儀なくされ、ここでも格差が生まれているようにも見えます。コロナが一応収束し外で飲む文化が復活したとしても、おそらく今まで以上に店選びは吟味されることになるでしょう。要は漫然と酒を飲ませる店は淘汰され、そこに入店すること自体が「経験」になるお店が生き残っていけるのではないでしょうか。余計なお世話ながら。

さて、そうした状況を迎え撃つ(?)我々断酒者、あるいは飲酒者も含めて、こちらも二極化、いやいや三極化していくという話を今回はさせていただきたいのです。

以前も書きましたが(参考「僕らにはもう「アル中になる自由」がない」)、昔の大人というかジジババは、リタイヤした後はアル中になる自由があったわけです。家族に対する責任はそれまでに果たし、年金も十分な額が退職と同時に支給されていましたから。もうお父さん、十分働いたんだから、これからは好きなだけ飲みなさいよ、といったライフスタイル(?)が一応は成立していました。

でも今は、どんな年齢の人でも、将来に向けて備えなければならない、それには酒が邪魔だということはこのブログでもさんざん訴えてきました。

昔のリタイヤ後のお父さんと同じような立場ならば、何でもいいわけですよ、もうどんどんやっちゃってくださいよという感じですよね。そういう人は「飲んでいい」に分類されるでしょう。これまた余計なお世話ながら。

「飲んでもいい」と「飲んでる場合じゃない」と、もう一つの第三極とは?

一方、若い人はもちろんですが、年齢に関係なく将来に対して何らかの備えをしなきゃいけない人は「飲んでる場合じゃない」というふうに昨今の状況はなっていますし、年金不全や2千万円ためろやゴルァ!といった中で、そういうカテゴリー(?)に分類される人も増えていることでしょう。

また若い人で、心に秘めた野望があるのならあえて飲まないという選択はあると思います。いやーそういう選択ができる人がジジイとしてはとてもうらやましいです。

さて、実は怖いのはここからなのですよ。

よく飲酒率が高いのは収入が多い人というふうに言われます。でもアル中率が高くなるのは収入が低い人です。これが問題を複雑化しているのですね。

昔のリタイヤ組と同じように、①飲んでもいい人がまずいるとします。そして②将来のために酒をやめよう(少なくとも酒に支配される人生からは脱しよう)という人がいます。で、③将来のことは考えたくないから飲むという人もいる。これが三極化ですよね。我々断酒者としたら、何とかその③にだけはならないようにしたい。それが断酒の大きなモチベーションになってるのではないかと自分に言い聞かせる次第です。

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