一日の終わりに「イベント」は必要なのだろうか。

酒やめて、2590日

酒飲む時間を待ち望みながら生きていたのだった

飲んでいる人はおそらく誰でもそうで、私なども飲酒時代はもちろんでしたが、とにかく一日の仕事が終わって飲む、そのことが一大イベントであり生きる目的になります。いつも書いていますけれども、仕事をしているとき、昼間の自分は土の中のゼミで、飲める時間になってやっと土から出てみんみん鳴ける。そんな思いで生きてしまいます(参考「飲んでいないときは土のなかのセミ? そんな状態はもうゴメンです」)。飲酒タイムが、1日の終わりの輝く金字塔だったわけです。

なので、断酒してこれがなくなってしまうと大きな喪失感にとらわれてしまうのですが、ただし、断酒を続けているうちに、はたしてその「イベント」というものは必要だったのだろうかというふうに考えるようになりました。ルターさんいうところの「常識を疑え」というやつですね(おおげさ)。

当たり前の話ですが「イベント」がなくても人生は進行していきます。空いた時間は、酒飲む代わりに、私の場合、ブログを書いたり(「酒やめてよかった!」を自分で確認するためでもある)、筋トレをしたりしているのですが、このようなアクティブな楽しみは、飲酒に比べれば脳汁が出てくるまでに時間もかかり、それだけに出てきたときのありがたみは格別なようにも感じます。

これまた以前も書いていますが、すぐ手に入る楽しみ(その典型が「飲酒」ですね)は、楽しみのうちでも下の下なんですね。なかなか手に入らない快感がホンモノであり、もたらされる喜びも大きい。少なくともそう思い込もうとしています(参考「酒やめて、「すぐに得られる快楽」では満足できない脳になってしまった件」)。

またそのように「アクティブ」でなくても、普通に本を読んだりYouTubeを観たりと穏やかに過ごすと、まさにイベントブルではないけれどもコンフォータブルだなあ、もうこの生活でいいやという思いが確信になったりします。どちらを選ぶかということですが。

あと大きいのは、酒さんに対する敵愾心です。

酒さんやオールドメディアの思う通りにはならねーぞ!

酒さんというところの者は、一日の終わりのゴールデンタイムを人間の鼻先にぶら下げ、それで人間を飼い慣らすのですよ。

つまり、飲んでいた時代は結局のところ酒さんの奴隷だったのだと規定すれば、俺は奴隷なんかじゃねーぞという思いがむくむくと湧いてきます。

これはこと飲酒にとどまりません。酒さんの思うがままになるということは、酒推しがはなはだしいオールドメディア(WHOにいくら勧告されても、酒飲むシーンの描写をやめない。普段はなにかってーと国連はじめ国際機関は絶対だというスタンスを取るくせに)の思うがままだったり、施政者の思うがままだったりにもつながっていて、それは自分の人生を破壊するというふうに自覚すれば、その「イベント」のつくりごと感が際立ち、じゃあそんなイベントは要らないというふうにもなったりします(理屈ぽくてすまんが)。

ともあれ、そのように自分軸で生きるということにつながっているのが、断酒の醍醐味かと。

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