「社交に酒は必要なのだろうか」問題を考えてみる。

酒やめて、2588日

一人が飲めなかったら全員飲まない!?

先日、父が以前所属していた水泳クラブの幹事の方から、会合、要は飲み会をしたいのですがお父様はご参加いただけるでしょうか、といったお誘いをいただきました。

現在、うちの父は老人ホームに入居しており、ただ、そのホームは外出自由なので飲み会に参加すること自体は問題ないのですが、父の場合、飲むと認知の進行が加速するとのことで酒は禁止されています。しかしそのような飲み会に出たら、絶対に飲みたがるに決まっています。なのでそのようにご返信申し上げたら、ではみんなで相談した結果、昼に酒抜きでやることにしたのでぜひ、というふうに返ってきました。まったくありがたいことです。

私の飲酒時代だったらどうだったか。つまり私が主宰する飲み会だったらどうかと考えると、それじゃあ残念ですね今回は不参加ということで、にしていたと思われます。飲めない人はお呼びじゃない、というわけではないにしても、一人が飲酒NGだから全員が飲まないというふうな思考には絶対ならなかったでしょう。威張ることじゃありませんが。

その水泳クラブの場合、一つには全員がご高齢でだんだん飲めなくなっている、飲まなくなっている(すなわち「軟着陸」ですね)ということも「酒抜き」の背景にはあるのではないかと思います。実際、水泳クラブとはまた別の父の友人(元の飲み友)は、脳梗塞で倒れて以来飲んでないのでお茶でも一緒にいかがですかと誘ってくれますし。

そのような高齢者特有の事情は差し引いたとしても、一人が飲みたくても飲めないから全員飲まないようにしようという会合のあり方も実際にあるのだなあと、感謝とともに感慨を抱いてしまったのでありますよ。

「酒よりも人」ということになりますよね。

ジジイだからこそ高潔に生きたいのだ

そういうといかにも綺麗事で、自分で書いていて鼻白んでしまうのですが、ただ、以下のようなことは言えるのではないかと。

人間は酒を飲むために「集まる」という側面があります。「♪〇〇で酒が飲めるぞ酒が飲める飲めるぞ酒が飲めるぞ」てやつです。

ただ、酒というものの存在をなくして考えると、本当に「人」がクローズアップされる。誰しも老後に向けて、みんなで集まるという意味が厳選されてくるのではないのかなあ、とも考えます。みんな自分の人生を大切にしだして(断酒erならなおさら!)、会いたい人だけに会う、会いたくない人には会わないというふうになる。

逆に言えばそれを阻害するのが酒さんで、酒があればどこへでも出かけるというパターンに陥りがちです。いや、若いうちならそれでいいかもしれないけど、ジジイになったらそれはみっともない……、て、他人事のように書いてますが、私も飲み続けていたら、飲める席なら裏金議員の後援会にも出向く、そしてXに「裏金許せん」とポストするという、アホそのものの老醜をさらしまくっていたでしょう。

酒やめた今となっては、お前が飲まないのならみんな飲まないよ、と言われる人間になりたいものですわ。

カテゴリ別インデックスページはこちらです。

にほんブログ村 酒ブログ 禁酒・断酒へ
にほんブログ村

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする