酒を飲むということは、「為象箸」ではないかと。

酒やめて、2494日

zouge

酒池肉林の愚行は象牙の箸から始まったのだった!

「象箸玉杯」という故事成語があります。初めて習ったのはたぶん高校時代で、今でも覚えているのはかなり印象に残ったからでしょう。むろんご存じの方も多いと思いますが、もともとは「紂為象箸(紂王、象牙の箸をつくる)」という『韓非子』の一節だそうです。

「紂王」というのは、中国史上でも悪い王様の代表(ざっくり)で、酒池肉林の故事でも知られています。そしてそのような愚行に至る最初の一歩が「象牙の箸をつくる」だったらしいのですね。それを知った賢者が、やがて象牙の箸だけにとどまらず、器もそれにふさわしいものを望み(=「玉杯」)、それは豪奢な宮殿を造営することにつながり、民を増税で苦しめるだろうと危惧し、その通りになったわけです。そのあげくが「酒池肉林」です。

私などは、当然ながら高校生の時までそんなことを考えたこともなかったので、二松学舎出身の漢文教師の解説を、ああなるほどそういうこともあるかもしれんなあ、と感心しながら聞いた次第でありました。

でもって年齢を重ねると、バブルを経験している世代ということもあり、ちょっとした贅沢から始まって、終いにゃすべてを贅沢にしなきゃ気がすまん! みたいなメンタリティはなんとなくわかるようにはなりました(実践はできんが)。

ただし、この故事成語をなんとなくではなく、しっかり実感できるようになったのは断酒してからであります。つまり紂王とは逆に生活を徹底的にミニマムにしていった結果、ああそういうことなのだなあとしみじみ得心したのですね。

飲酒から始まる「大きな人生」がヤバいのですよ

どういうことかというと、ここからはいつもの断酒er理論になりますが(汗)、飲酒をするのは象牙の箸をつくることに近いのかなあ、と。酒を飲む習慣があると、やはり美味しいものが食べたくなったり、社交が派手になったりで、メンタリティ的にも贅沢を求めるようになり、どんどん生活が拡大していく。

紂王のようにそれを担保する経済力(税金だが)があればいいけれども、一般人はそういうわけにはいかないのでどこかで齟齬をきたしてしまうと、今さらながら思ったりします。

そうしたことの最終到達点は金がないのに酒を飲みたがる、つまり集り酒をしたがるようになるというわけで、酒池肉林とは真逆の、でも根っこは同じ最悪のケースです。まあ、そういう人が実際にいるんだ(参考「反面教師の存在が、断酒と断酒継続にかなりのインパクトを持つという話」)。

今、そのような価値観から徹底的に離れてみると、「大きな人生」を求めてしまう(参考「「大きな人生」と時代と社会の親和性が低くなっている。このようななか酒はどうですか、という話」)最初の一歩としての飲酒というものは、象牙の箸くらい「危険」なものなのかなあ、と。単に身体を壊すとか、アル中になるといったリスクがあるだけでなく。

逆に言えば、これまた断酒er理論かも知れんが、酒さえ飲まなければ生活なんてミニマムでいいし、何よりも贅沢指向、パリピ指向の生き方に対する執着がなくなるのが大きいのかなと勝手に思ったりしております。

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