酒やめて、1622日。
伊丹十三先生の「禁煙テクニック」は断酒にも!?
ちょっと前に書いた「しつこいようですが、「断酒」と「時代」は切り離して考えられないことを確認しておきます」という記事に関して、Twitter上で私が勝手に断酒仲間と認定させていただいてる「MJ@断酒で人生好転中!さん」が以下のようにツイートしてくれました。
『MJさんお酒やめたらしいですよ』みたいな噂がどんどん広がるように、社内でも遠慮なく断酒している事を伝えています。
『えっ!?○○さんもやめたって言ってたし…』みたいになってくると流行りに乗らなきゃ!ってなってくるんじゃないかと😅
ほんとタバコと同じ流れで、時間の問題だと思います。
— MJ@断酒で人生好転中❗️ (@MJBLUE6) July 10, 2021
これを読み、私は伊丹十三氏発案の禁煙必勝法を思い出したのでした。数年前に出版された、遺稿集である『ぼくの伯父さん』(つるはな刊)の中に「禁煙のテクニック」というメソッド(?)が収録されています。
まず最初に相棒を一人見つけるのだが、これはどういう人物がいいかというに、ほら、口グセのように禁煙する禁煙するといいながらたえて禁煙したためしのない男、ね、思いあたるでしょう。あの男と組んで二人で禁煙を宣言するのである。これはなるべく多数の人を相手に宣言するのがよろしい。
(中略)
さて、二人は禁煙を宣言した。あなたの相棒は二、三日のうちに必ず陥落するはずである。その日のうちに陥落する場合だってある。なんのかんのといいながらまたたばこを吸い始める。そのありさまはまことに見苦しい。君はひそかに優越感を味わいたまえ。また周囲も君を称賛するだろう。「やはり意思の力だね」「うん、なかなか根性がある」「ほんとうにあの人ったらいったんこうと思いこんだらあとへ引かないんだから」「すてきね」ということになる。
このような、誰か仮想敵(?)を設定してそいつに勝つというメソッドは、断酒においてもなかなか有効ではないでしょうか。
ただ、タバコは先のエッセイが書かれた60年代でもすでに「絶対悪」「できればやめたいこと」になっていたようですが、じゃあ酒はというと、必ずしも現時点では「絶対悪」と言えないのがつらい(?)ところであります。
絶対悪ではないかもしれないけれども、ダサいのだ!
でも、絶対悪にまでなってないにしても、酒飲むのはダサいことはダサいのですよ。なぜならば、一つには若い人はあまり飲んでないということがあります(参考「酒を飲む飲まないは、嗜好の問題ではなくもはや属性の問題になっている件」)。若い=かっこいい、ジジイ=ダサいというと語弊があるかもしれませんが、ただ社会的通念で言えば「ジジイ+酒を飲む習慣」はダサいのですね。
だから私はジジイであるけれどもそこから抜け出したいという思いもあり、その思いも断酒を後押ししてくれています。
むろん、ここでいう「酒=ダサい」は飲み方について、です。たまにレセプションなどでシャンパンを一杯だけ、みたいなのはかっこいいですよ。こういう人をリアル機会飲酒者というのでしょう。
一方で、たとえアル中や依存症じゃなくても、毎晩晩酌をしてそれが唯一の楽しみ、そしてそれが世間の憂さを晴らすため、あるいは仕事の疲れを癒すためといったようなパターンには、昭和的ダサさを感じます。まさに私はそういうパターンだったので、昔の自分は超絶ダサいなと思いますし、今はそこから抜け出てとてもうれしいです。
ともあれ、現時点で酒は必ずしも「絶対悪」ではないけれども、この「ダサい」ということを絶対悪とする――「毎日、世間の憂さをはらすため、仕事の疲れを癒すため晩酌する人」を、伊丹先生いうところの「見苦しい相棒」と重ね合わせ、いわば仮想敵にすることで、断酒はしやすくなるのではないかと愚考する次第でございます。
そういう人ってホラ、あなたの周りにもいそうじゃないですか←(伊丹先生ふうw ファンの方ごめんなさい)