自分という存在と人生を交差させた人々を、不幸にしてしまったのではないかという不安と悔恨があります。

酒やめて、1201日

昨日、酒をやめてなければ乗り越えられなかった出来事について、書かせていただきました(参考「酒をやめてなければ、絶対に乗り越えられなかったであろう二つの出来事」)。酒をやめて1200日を越え、ブログも201本書いた今、もう一つ、自分の心の中で整理がついたというか整理がつかないというか、どうしても書き残しておきたいことがあるので、ここに記させていただきます。

自分の存在の「毒」をさらに増幅させる酒という「毒」

それは多くのアル中・過飲酒者、あるいはそうした人が断酒してから共通して感じていることなのかもしれませんが、自分の飲酒によって、誰かを不幸にしたかもしれないという不安と悔恨です。

いや、飲酒行為によって、というのとはまたちょっと違いますね。自分というものが世の中に存在していることによって、その自分の人生と交差した人を不幸にしたのではないか、ということです。そして自分の存在そのものが周囲に与える負の影響を、酒がさらに助長していたのではないかという畏れです。

これは酒飲んでいた時代は考えもしなかったことです。酒をやめてなんとなくおぼろげながらそういうふうに思い始めたということですね。身勝手な話ではありますが。

人間は生きていくうちに多くの人と交わります。その交差が他者を幸せにしたり不幸にしたりするのでしょう。なるべくなら不幸にはしたくないとは思います。

というよりも、人間の生きる目的として自分が幸せになることと他者を幸せにすることがあります。当たり前です。ただ飲んでる時代は、やはり自分が幸せになる=酒を飲むでしたので、もうそれしか考えられなかったのです。

ですから、昨日書いた、犬と母のこと、とくに母のことを思いを馳せると、やはり非常に悔恨があります。

もちろんそれだけではありません。私と接点を持った人間が、私の存在ゆえに、そして私が飲酒してるがゆえに迷惑に感じた……というのならまだしも、その人生を微妙に狂わしてしまったのではないかという思いがあるのです。

もちろん、そうしたことは飲んでいなくても起こりえたことです。ただ繰り返しますが、酒は自分の「毒」の部分を増幅させてしまう。それだけは言えると思います。

あまり詳しく書くと赤裸々になり、心理的な抵抗があって書けない部分もあるのでこんなふうに抽象的なものの言い方にしかならないのですが、これが正直なところなのです。

とりかえしがつくうちにやめることができれば……

今、若い学生などを見ていると、他者を幸せにすることが勉強や研究のモチベーションになっているのがわかります。そうした人たちを見るにつけ、彼らのような存在がたぶん、身近な人とそして世界をいい方向へ導くのだろうと思います。

で、いつも書き連ねていることですが、そういう人たちと接するのもやはり断酒モチベーションになります(参考「酒やめて、新しい時代に踏み出す勇気がわいてきた!」)。

遅まきながら周りの人を幸せにする生き方をしなければいけない、それを自分を向上させるモチベーションにしなければならないと本当に強く思うわけですよ。

酒をやめていなかったら、そういう気持ちには達することができず、やはり自分が楽しいということだけを追求していたでしょうね。まあ酒やめて、普通の人間になれたということですかね、私の場合。

ただ、取り返しがつかないと思われることも多々あります。そして、その取り返しのつかないことが「少々」のうちに酒をやめられる人はうらやましいですよ、やっぱり。

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