宅飲みが危険と指摘する識者の意見に、元アル中として断酒者として違和感を覚えてしまう理由。

酒やめて、1185日。

専門家の指摘通りにできれば苦労せんわ!

コロナによる外出自粛で宅飲みが一大ブームの様相を呈しています。そしてそれに伴い、その危険性を指摘する声も上がっています。たとえば、こういうものですね。

こうした記事を読んでみると、いやまったくその通りです。そうとしか言いようがありません。ただし元アル中として、そして断酒者として、少し違和感を覚えてしまうことも事実なのです。

この手の記事で指摘しているポイントは以下の2つです。

①宅飲みだとついつい飲みすぎてしまう。適量を知りましょう。

②お酒に代わる楽しみを見つけましょう。

これねー、確かにそうなのですが、まあそれができれば苦労はせんよという感じですねー。

とくに①です。まさに適量でやめられたら、と心底思いますよ。というか、適量でやめたら飲む意味ないやん、とさえ考えてしまいます。また②についてですが、確かにランや筋トレなどを通じて脳内快楽物質が分泌され、酒の代替になることを今でこそ知っています。ただし、それは断酒してしばらく経って「悟った」ことです。

ですから「代わり」を見つけるというよりも、むしろ「やらなければいけないこと」を自覚し、そっちと酒とどちらが大事かを考えるほうが、私の場合は効果的でしたし酒をやめるモチベーションになりました。

というふうに書くと、なにを綺麗事を、と感じられる向きもあるかもしれませんが、そういうことでもないのです。それについて以下書かせていただきたいと思います。

「自由」だからこそ差がついてしまう恐怖

巣ごもりの特性として、当然ながら「自由」があります。

もうね、家では何をしようと自由なわけですよ。たとえばオンラインミーティングなどだったら、短パンで参加することもできますし洗濯機回しながらでもオーケーです。実際、今回の巣ごもりで、回数は少ないけれども、そうやってオンラインミーティングに参加していました。

で、この圧倒的な自由度、自己裁量の大きさが、結論からいうと「差」になると思うのです。

これは、私などジジイ世代も感じていますので若い方はもっとでしょうけど、今は常に自分を磨いていないと、ステップアップどころかサバイバルすらもできない時代ですよね。

IT関係の方だったら、もう十分すぎるほどわかっていることだと思います。

私は業界の事情に詳しいわけではありませんが、たとえばC言語の中の何と何に熟達しているということがまず前提としてあって、そこから仕事が始まるわけですよね(そうなのでしょうか?)。自分がここまでできるというステージがあり、それを日々アップさせることが受注につながるという図式があるんじゃないかと推測します。

で、こうした考え方が今や文系仕事にも波及しています。それは基本的なITスキルなのかもしれませんし、あるいは語学なのかもしれませんし、もっと言えば「教養」なのかもしれません。以前も書いたように、教養で人が「区別」「差別」される時代に、ついに日本も突入しています(参考「教養高く、ハラスメントに気を遣って酒を飲む。これって考えてみればチョー大変ですよ。だったら……」「飲んだくれていては、「教養の時代」を生き抜いていけない!?」)。

で、酒飲んでると、そういうふうにサバイバルするために自分自身を向上させる作業ができないのですよ。

そして日本人全体に膨大な時間が与えられている今、ここで何をやるかということが、ポストコロナには非常に大きな差になって顕れる。それが、その後のサバイバルに直結する。

宅飲みをしない、あるいは最低限にすることは、未来に向けての自分自身のファンデーションをつくることなのかもしれません。逆に言えば、ここで酒を飲んでいたらもうポストコロナの世界ではサバイバルしてはいけないという危機感こそ、宅飲みしないモチベーションになるのではないかと愚考する次第であります。ま、余計なお世話かもしれませんが。

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