コロナ禍における「酒ディストピア」化が、断酒の追い風になるのかならないのか。断酒者なりに考えてみた!

酒やめて、1548日。

アル中時代だったら「路上飲みの普及(?)」は大歓迎だった!?

三度目の緊急事態宣言で、なんと酒類の提供禁止という、思い切ったというか飲酒者からすればとんでもないことなのでしょうけれども、そうした施策が講じられました。これを称して「酒ディストピア」とする向きもあるようです。で、お店で酒が飲めないならばお外で飲めばいいじゃない? というパターンで、路上飲みや公園飲みなどが社会問題化しています。

しかし余談ながら、私のアル中時代だったら、この状況をラッキーと思ったでしょうね。なぜならば、店以外でも路上だろうが公園だろうが飲みたいわけですよ、アル中というところの者は。威張って言うことじゃありませんが。ただ、それではさすがに自分が人生の落伍者になったようで……というかその時点で十分に落伍者なのだけど、やはり恥ずかしい。でも、そうした「お仲間」が増えるのですから自分が目立たなくなるということで、だからラッキーととらえた、と思われます。ただしこれは文字通り、アル中の浅知恵です。

なぜ浅知恵なのかは後段で検証(?)するとして、この酒ディストピア状況が、断酒にとって追い風になるのかならないのかについて考えてみると、これは当然追い風になるでしょう。「酒を飲む」ということが、今は路上飲酒などを通じて悪目立ちしてるわけですから。

で、これはいつか来た道ですねー。そう、タバコがまさにそうでした。社会的な風当たりが強くなっていることが禁煙を決意させたという人も多いと思います。私もそうです。

とまあそんなことはお前に指摘されなくても重々承知だよ、といったことを、論を進める一応の前提として書かせていただきましたが、言いたいのはここから先であります。例によって誰にも頼まれてませんが。

「酒飲むのも苦労するよ」は、断酒のきっかけになる!?

さて、このような酒ディストピア化が酒をやめる後押しになるということをもうちょっと踏み込んで考えてみると、そのディストピアを克服するのに膨大なエネルギーが必要になるからだと私は思います。

ディストピアの中で酒を飲むのは、その分エネルギーを必要とします。それはたとえば、社会的な糾弾にどう立ち向かうかということです。

もし、路上飲酒の普及という状況がアル中時代に起きていたら……。先に書いたように目立たなくなる、ということで、一時はうれしく感じたかもしれません。でも、よくよく考えれば、「普及」ということは、それが広く認識され、とりもなおさず糾弾の対象になりやすい、ということですよね。

余談ながらこのゴールデンウイークでは、各地の公園の駐車場が閉鎖されています。そして但し書きには「近隣住民の要望で」とあったりします。つまり近隣住民は、こっちに来てBBQなんかするんじゃねーぞ、と思い、役所に「要望」し、駐車場閉鎖などはすぐできる「対策」なんで、役所は待ってましたとばかりにやっているわけです。

当然、これと同じようなことが「路上飲み」に対しても起きると考えられます。役所や警察に、路上で酒飲んでいる輩がいるぞなんとかしろ、と、ここぞとばかりに訴える「近隣住民」は山のようにいるでしょう。あるいは直接、正義マンという名の老害がなんか言ってくるかもしれないし(徒党を組むのではなく一人で気弱そうに?飲んでいたら)、さらには「狩り」みたいなことも起きるかもしれません。

で、路上飲みするなら、そうしたことをリスクマネジメントしていかなければならない。結構、疲れます。これはタバコと似ていますよね。もちろんタバコの場合、「火事」という最大のリスクがあり、酒はさすがにそれはない……と思いがちですが、「身の危険」も「火事」に匹敵するし、そうでなくても今の時代、「非難」にさらされると考えるだけで、ぐったりしてしまいます。そこまでして飲みたいか、となるのは、タバコで考えた通りですよ。

繰り返しますが、「路上飲み」に対する社会の風潮がそうなっていくと、それを克服するためのエネルギーも指数関数的に多くなるわけですよ。そうでなくても酒飲んでいると膨大なエネルギーが奪われるのに、酒を飲むにあたっての準備段階で、というか心持ちでエネルギー消費し、それで酒飲んでいたら他のことは何もできなくなってしまいます。

とまあ、このような、いわば飲む以外に使うエネルギーに思いをはせることは、断酒していく上で案外大きな意味を持つのではないかなあと思ったりするわけですよ。

そしてここでは路上飲みをテーマ(?)にしましたが、酒飲み全般に広げて考えても、このご時世、適用されるのではないかと。

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