「それでも俺は酒を飲む」は、ある年齢を境に「頑な」のアイコンになってしまう。悲しいことに。

酒やめて、1566日。

世の中、自然に酒やめられる人もいるんだ(驚愕)!

私が愛読している庄内拓明さんのtak-shonai’s “Today’s Crack” というブログが減酒について取り上げています(参照「自然に無理なく「減酒」することの有効性」)。

「減酒」というテーマについては私もときどき書かせていただいてますが、結論としては、アル中やアルコール依存症まで行ってしまったらおそらく無理でしょうね。ただ、普通の人にとってはある程度、効力があるのかもしれません。私の周りを見ると、減酒、すなわちちょっとお酒控えめにしようという人には2パターンあります。

一つは、ちょっと控えめにしようとして、リバウンドしてしまう人。あれ? 酒飲むの控えたんじゃなかったの? と訊くと、「いやいや無理でした(白旗)」みたいな人ですね。別にアル中とかアルコール依存症というわけでもなく。まあ片足突っ込んでいるのでしょうけど(余計なお世話)。

二つめは、ちょっと控え目にしようかという感じで控えて、ほんとにやめてしまう人です。くだんの庄内さんもそのようなタイプの人のようです。

強いて「飲みたい気持ち」に打ち勝ったというわけではなく、体の方が自然に「飲めない体」になってしまっていたのだ。

冒頭のブログ記事には、上記のような記述があります。まったくもってうらやましいです。

「やめる必要はない( ー`дー´)キリッ」ジジイはやっぱりダサイ!?

一方で、「やめる必要を認めないのでやめない」という人も確かにいます。もちろんこれは人それぞれなので、私などがいろいろ言うことじゃありませんけど。

むろん、アル中時代は私もそうでした。やめなきゃ破滅するとはわかっていたけれども、対外的には(?)、「やめる必要はない( ー`дー´)キリッ」でした(苦笑)。要は酒を飲むということがアイデンティティになっていたんですね。ですからやめるということは、自分の存在を否定されたような気がしてしまっていたのです。完全な馬鹿です。でも案外にそういう人は多いようにも見えます。

で、こうした態度は当然のことながら客観的に見て「頑な」です。

考えてみると若い頃は、この「頑な」であることが、いわゆる「こだわり」というふうに美化されて、美徳のように扱われていました。仕事の上でも、ですね。仕事の種類にもよるのでしょうけど、自分の意見をブレずに持っていて容易に妥協しないという姿勢が大切だったりしますし、いい仕事につながったりする側面は確かにあるでしょう。

若いうちはそれでいいのだけれども、だんだんとその美徳であるはずの「こだわり」ってやつが、単なる頑固なジジイの主張のように受け止められるターニングポイントのような年齢が確かにあります。

それがいつからかは分かりませんが、当然ながら私はもうこちらに来ているということです。

そんなふうに考察を進める(?)と、庄内拓明さんなどは私よりも年上ですけれども、自然なかたちで酒をやめられたということで、これは生き方そのもののフレキシブルさにも通じているようにも見えてかっこいいです。一方、「やめる必要はない( ー`дー´)キリッ」ジジイはやっぱりなんかダサイです。余計なお世話ながら。

余計なお世話ついで言えば、そういう人は仕事の上でも、人間性として「やめる必要はない( ー`дー´)キリッ」が出てきてしまったりする、自分は頑な人間であるアピールを自然自然にしてしまう。やっぱ損だよなあ、と断酒者としては考え、そこは都合よく、酒やめてよかったわ、庄内さんと同じサイドに来れたわ、と、多少誇らしくも感じるのです。

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