酒とテレビと同調圧力は、手に手を取ってやってくる。怖い怖い……。

酒やめて、1586日。

テレビなんて、酒でも飲まなきゃ視てられない!?

若者のテレビ離れが顕著なようです。「若者はなぜ離れた? テレビの“失われた10年”を招いた「世帯視聴率」の呪縛」という記事がありました。これによれば、15分以上視聴した場合のみ「見た」として集計すると、20代は51%だそうで、要は20代の半分はほとんどテレビを視てないのです。

一方、若者の酒離れも進んでます。厚生労働省の2017年の調査によると、20代では、「ほとんど飲まない(飲めない)」の割合が男性の51.0%、女性の61.2%に達しているとのことです。

つまりテレビも視なきゃ酒も飲まない若者が半分いるってことで、もしかしたらこれはシンクロしている事象(?)ではないかというのが断酒者としての仮説であります。誰にも頼まれてませんが、以下、それについて述べてみたいと思います。

これもいつも書いていますけれども、テレビってやつは、はっきり言って酒でも飲んでないと消費できないコンテンツばかりですよね。とくにコロナからこっち、世の中の敵を見つけて糾弾することで成り立っているようで、なんでこんなものに俺の大事な時間を費やさなきゃいけないのかと思ってしまいますよ。もっとも私は自宅にはテレビがないので、視たといっても実家や友人宅でのチラ見ですけど。

でも、そういうものでも飲酒時代はダラダラ視ていたのだから不思議です。酒とテレビというのは非常に相性がいいんですよ。とにかくテレビのコンテンツのつくり方というのは、私のようなものが言うのもなんですが紋きり調です。

たとえば、コロナに関しても「国ガー」「政府ガー」「百合子ガー」みたいな論調がまずあります。とにかく「日本ダメー」が基調で、それこそ私が子どもの頃からそうでした。それは彼らが親しくしているように見える中国韓国の意向もあるのかもしれませんが、そうでなくても、そのような紋きり調にしなければ、内容がとっ散らかってコンテンツとしてまとまらないという理由があると思います。ワイドショーの類とバラエティ、あるいはドラマでは若干違いますけれども、ただ根底にあるのは一緒です。ちなみに書籍は、落としどころをわかりやすくする必要がないので、紋切り型にしなくて済み、その分オリジナリティが出ます。だからテレビよりも読書、なのですね。

「自分軸」を持っているから、酒もテレビも必要ない!?

そのテレビの、いわばドラマツルギーのようなものがずっと私たちを支配してきたと思います。私などはテレビ世代ですから、結構それで刷り込まれてきました。たとえば「番長は心優しくて力持ち」だとか「ガリ勉優等生は意地悪」だとか、あるいは長じてからは「ナウなヤングは東横線沿線のおしゃれな1LDKに住んでいる」とか、もっと長じてからは「トレンディなDINKSは、休みに日にはゴールデンレトリバーをボルボのエステートに乗せて」とかですね(旧!)。でも考えてみれば、これは恐ろしいことですよ。

ただ、そうしたテレビ特有のドラマツルギーのようなものは、酒飲んでるとすっと入ってきやすいし、予想できるので頭を使わないでよくて、これがまた飲酒しながら視るには非常に都合が良いのです。一方、飲酒してないとあまりのくだらなさとワンパターンが目立ち馬鹿馬鹿しくなります。

で、酒飲まない、テレビ視ない若者は、我々世代よりも「自分軸」というものを持っていますので、コンテンツとしてのテレビ番組のような、手垢がべったりついたものが受け入れられないのではないのか、と。だから、旧い世代がつくった言葉でいえば、まさに新人類であり、ここにいたってリアル新人類が出現した感さえあります。そして以前も書きましたが、宇宙人から見れば、地球上には二種類の人間がいるということになるのでしょう(参考「今の人類を宇宙人の視点で見てみると、いろいろ言い得ておもしろいという話」)。

酒飲まなければ、我々ジジイでもリアル新人類たちのメンタリティに近づけるという嬉しさがあるのですねー。これがリアル若づくりってやつですよ。

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