酒やめて、2326日
機会飲酒者は自然体なのだった!
丸谷才一先生の著作の中に、確か先生の知人の言葉として、夕食の時にちょっとでもビールが飲みたいなと思ったらそれはアル中だ、といったものがあります。それに対して先生は、キリスト様でもそんな残酷なことはおっしゃらなかったと嘆いています。原典が探せないのでうろ覚えで申し訳ありませんし、また丸谷先生のことですから旧仮名遣いで書いていたのでしょうが現代語訳しております(旧仮名遣いでどのように表記するのかわからない)。
しかしこれねー、初めて読んだのは先生のご存命中で、私がアル中の時期でしたけれども、んな馬鹿なことあるかい夕食の時にビールが飲みたくのは当たり前やろ~人間の自然な感情をもってアル中と言われても困る丸谷先生の嘆きは当然だ! という感想を抱きました。
ただ酒をやめた今は、「夕食の時にちょっとでもビールが飲みたいなと思ったらそれはアル中」が、非常によくわかるんですよ。
私の周りには、自然に酒やめたという人がわりといます。そして会合などの時、最初の一杯だけ、あるいは二杯のときもあるかもしれませんが、ビールを飲むというパターンですね。典型的な機会飲酒です。
そういう人は、こちらが気づくと普通にウーロン茶などを飲んでいます。私が知らないうちに(?)切り替えているのです。そこに何の意思も感じられず、ほんとに自然体です。あれ、飲んでなかったっけ? と訊くと、いやもう酒は十分、みたいな受け答えをします。しつこいようですが、まったくもって自然体なのです。
それは「コントロール」ではありませんよー!
一方、世の中には自称適正飲酒者という存在があり、このブログにもよく登場させております。そういう輩の思考回路は、これもたびたび書いていて恐縮ですが、俺は飲酒をコントロールできる→俺は酒を飲んでいい。お前と違って→(俺は優れた人間だ。お前と違って)となります。カッコ内は私の妄想あるいは被害妄想ですが、そんなに間違ってないと思います。なぜなら普段の言動から「俺は優れた人間だ」風吹かせてますから。それは、酒さんによる人格魔改造という側面があることも、いつも書かせていただいている通りです。
まあむろんどうぞお好きに、なのですが、「お前と違って」に対して少々反撃すれば、いやいやそれはコントロールできているとは言わないんですよー。なぜなら「コントロールする」という「意思」が入っているじゃないですか。本当にコントロールできる人は、自分がコントロールしているとはつゆとも思ってもないんですよ。先の、気づくとウーロン茶に切り替えている人のように、まったくの自然体なんです。
たとえて言うなら、十牛図の「八(人牛倶忘)」です。禅の最上の悟りですよ。あんたの「コントロール」とは違うんやでー、ということを言いたいのでありました。毎度毎度の余計なお世話ながら。
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