医療においてアルコール起因の疾患は「鬼っ子」になっているよね、という話。

酒やめて、2480日

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医療関係者の間にある種の「諦観」が拡がっている!?

一昨日、「河本準一さんの「お酒は月に一度一杯だけ」にみる、「飲酒」と「医療」の溝」という話を書かせていただきました。書ききれてない部分があるので、アルコール摂取と医療の関係についてもうちょっと深掘りしてみたいと思います。それがタイトルで、医療においてアルコールはある種「鬼っ子」になっていると感じるんですよ。

医療関係者には、アルコールで倒れた人は救っても仕方がないといった諦観があるようにも思います。むろん、実際の医療行為でそれは顕在化しないでしょうけれども、思いの底流としてあるのではないか。アルコールで倒れた人間は医療関係者はマトモに相手にしないよという、父の在宅医療に来ていた医者の言葉を聞いたこともありますし。

さらに一昨日書いたように、実務的にも、アルコール起因での疾患は治療するけれども、そもそもその根本にあるアルコール類との付き合い方については精神科に任すといったふうになっています。紹介状は書くし、協業はするけれどもその協業はあくまでも分業者同士の協業です。

これもベースには、先程の「諦観」があると思うのですね。私の推測ですが、長年、アルコール起因の病気やケガの患者を相手にしてきて、治療しても良くなるとまた飲んでしまってどうしようもないという無力感が医療関係者にあって、もうやってられない気分が蔓延しているのではないでしょうか(とくに救命救急の現場)。

なんだかんだで「断酒」がいちばん面倒くさくないですよ

私などは『今夜、すべてのバーで』を読み、飲み過ぎて具合が悪くなり病院に行ったら入院させられたというエピソードを当たり前にとらえていました。著者の中島らもさんの実体験当時はそうだったのでしょうけれども、今はアルコールで倒れてじゃあすぐに入院できるかどうかというと、非常に微妙だったりします。

そして『今夜、すべてのバーで』を読んだ当時、憎い悪役に映った赤河医師は、アルコール依存症患者の心理の部分まで踏み込んで治療に当たっていたのですから、ある意味、神かもしれないと今は思っています。もしあの小説が実写映画になるのだったら、もう一人の主役ともいえる赤河医師は、ぜひとも織田裕二さんにやってほしいです。

さて、一昨日と同じ結論になりますけれども、こうした医療の実態があるところに、アルコール依存症とまでは行かなくても予備軍だったりすると、患者サイドの負担が増えるのは間違いない。考えなきゃいけないことが増えるし実際に動かなきゃいけないことも増える。

そしてこれは、当事者になってみるとわかるのですが、一言で言えば「あー面倒くさい」です。そもそも酒を飲んでいて面倒くさい体質になっているのに、アルコールを鬼っ子にしている医療に向き合わなければいけないとなると、また酒に逃げ込みたくなり、状況がどんどん悪くなるのは自明です。

一つの対策(?)として、まずアルコール外来なりの精神科系に行ってみるという方策もありますが、それよりも酒やめるのがラクといえばラクです。そして酒をやめた人間に対して、医療は、ホントに手のひらを返したように手厚くなります。これはもう驚くほどです。

あるいは一昨日記した「月に一度一杯だけ(なら飲んでいい)」も、断酒を続けた河本さんへの、医療サイドの信頼から出てきた言葉なのかもしれません。

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