飲酒という不合理な消費をしてしまうのは、それが(馬鹿馬鹿しい)アイデンティティに支えられているからだ。

酒やめて、3025日

「聖域」と「市場原理」は両立しないぞ!

「物価高に増税で庶民の暮らしは苦しくなるばかり」という現実があり、一方でこのような紋切り型のフレーズが大の得意だったオールドメディアは、すっかりその元凶である財務省のポチになっています。

物価高について言えば、私のようなミニマムな暮らしをしている者には影響は最小限だと思いますが(最小限にしていますが)、それでもやっぱりガソリンとコメはマジ痛いです。コメに関しては断酒の切り札とも言える存在であり、これが馬鹿高いのは断酒ライフにも影響を与えようというものです。

私などは通常麦飯にしていて、つまり味にはこだわっていないので、輸入米でも全然オッケーなのですが、その輸入米も国産米に比べ5キロで500~1000円程度安いだけなんですね。あまり変わらない。今、コメの関税がキロ341円といいますから、もし撤廃すれば5キロで1300~1800円程度になるわけですよ。業スーやOKならもっと安くしてくれるかもしれなません。

てか、今の国産米の高騰は需給バランスが崩れたことにより……などと言われますが、つまりそれって市場原理で価格が決まるってことですよね。だったら「聖域」にして守るっているもおかしな話です。完全に市場原理に基づく商品にして、自動車なとど同じく自由競争にするべきでしょう。そうすりゃ農家だって農協だって、高く買ってくれる中国様に正々堂々輸出することができるってもんです。今のように「聖域として(税金を使って)」守っているモノを、高く買ってくれるという「市場原理」に基づいて中国なりに輸出するのはスジが通らないでしょう(と、素人は思ふ)。大昔、スターリングがやった悪名高い飢餓輸出に匹敵するのではないでしょうか。

なぜ人は貧しくても酒をやめられないのか?

それはともかく――。日本は先進国の中でも際立った低賃金を誇っていますが(皮肉)、それでもこれまでは円高に支えられた物価安があったからこそ、何とかやっていけたわけで、その二つの大前提が大きく崩れている今、いよいよ社会全体の貧困が顕著となり、増税や社会保障費負担増とあわせてディストピア的様相を呈しています。

貧困になれば、当然、消費を削らなければいけない。そして酒代を削るのは、貧困脱出の非常に有効なメソッドなのですが、なかなかそうはいかない。日本よりもっと貧乏な国でも、そして明日の食べ物がないという状況でも、酒だけは買うという消費行動をする実態があるそうです。そうした不合理な行動をしてしまうのが人間というものなのでしょう。

私の周囲においてもそういう行動をしている人がいます。お金がないお金がないと言いながら、お酒だけは毎日しっかり飲むというパターンです。と、エラソーに言ってますが、むろん他人事ではなく、私も酒を飲んでた時代はまったくもってそうでした。

なぜそうなるかといえば、金がないから人生ハードモードになり、酒を飲まずにはいられないことが大前提としてあります。

もう一つの理由は、酒を飲むという行為が、アイデンティティに結びついているからだと思います。先の「金ねー」と言いながら飲んでいるような輩だって、飲んでいることをやたらアピールしますからね。

私にしたところで飲んでいた時代は、いやいやいやお酒飲むぐらいしか楽しみはないんですよ、などとよく言っておりました。先の輩と同じように、飲むことが自分のアイデンティティのアピールだったわけです。そしてアイデンティティと結びついた消費は存在証明であるので、なかなかやめることができない。この辺が難しいところです。

しかし考えてみれば、飲酒がアイデンティティなんて世の中で一番くだらないアイデンティティです。なぜならば、酒飲んでハードモードになっている自分の人生を取り繕うためのものですから。酒やめてようやくそこに気づくとは、愚かしいことではありますが(苦笑)。

原則として火曜日と金曜日の19時に更新しています。

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