酒やめて、2662日
マトモじゃないのにマトモだと主張してしまう
ちょっと前に「飲酒。この特殊な消費」「「飲酒は特殊な消費」には、その先がありまして」といった話を書かせていただきました。飲酒行為は「特殊」であるのにもかかわらず、それを当たり前だと思ってしまう「構造」があるということです。
その典型的な例が、アル中、アル依まで行かなくても、客観的に見てマトモじゃなくなりつつあるじゃなくなりつつあるのに(借金したり、とか)、俺はマトモだと主張する人がいることです。これは、まったくもって特殊性の一環であったりします。
このあたりはアルコールに限らず、ギャンブルなどでも、俺は勝っているから(んなわけないのに)と主張するのと一緒でしょう。
そして、そうしたことは「自分だけは」という選民意識につながり、普段の生活や仕事ぶりでも傲慢になったりします。
じゃあお前はどうだったんだといえば、私などの場合、マトモじゃなささが酷すぎて、マトモだと主張しようものなら失笑を買ってしまうレベルだったので、逆に周囲のマトモじゃない人間に自分がマトモだと確信させるためのある種の基準になっていました。マトモだと主張する以前のところにいたとでもいいましょうか。
ただし、酒を飲みに行く時は何か特別なことが起こりそうな気がしていて、自分の人生が華やかになるのではないかといったような期待感が心のどこかにあり(んなわけないのに)、やっぱりパリピ指向になっていたと思います(参考「酒を飲むということは、「為象箸」ではないかと」)。
「自分は特別じゃない」←コレ
でもって酒をやめると、自分の人生に特別なことなんかなーんもない! みたいな諦観が生まれるということは、いつも書かせていただいている通りです。
自分は特別、あるいは格別な(能力を持つ)人間じゃないのだから、自分の人生が特別、あるいは格別になりようがないという至極当たり前のことに今さらのように思い至るわけですよ。
そして、それで良いのだと積極的に肯定できるようになるとでもいうのでしょうか。ましてや、自分はマトモに飲んでいると主張しつつ、仕事の上などで特別感(傲慢さ)をかましてくれる人間が周囲にいるとなおさらです。そういう輩を反面教師にできますから(性格悪い)。
しかしねー、酒をやめると、人生に起こり得るすべてのことが「普通」というにことに収束していく感じがすごくあるのですよ。
これをハタから見れば(本当の意味で)マトモになったというふうになるのかもしれませんが、自分からすれば世の中の価値観がマトモ=普通であるということが改めて認識できるということであり、あるべきところに収まっていくという感じが心地よかったりもします。いつもながらの文章力のなさで上手く表現できないのがもどかしいのですが。
ただ、普通でいいんだ普通で、という思いが、あるいは人生を好転させてくれるのかもしれません。
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