「アルコール依存症は病気か」問題と、断酒メソッドのあり方について深掘りしてみる。

酒やめて、1698日。

前回、「「アル中」ははたしてポリコレの対象になるのかならないのか。これは病気か否かということでもあり、断酒メソッドにも関わる問題です」といったことを書かせていただきました。要はアル中(アルコール依存症)が病気か否かで断酒メソッドも異なってくるのではないかという仮説です。そこにポリコレ問題などを絡めてしまったので、私の手に余るものとなってしまい、どうも言いたいことが伝わらなかったのではないかという危惧もあるので、誰に頼まれたわけじゃないですが、今回ここで深堀りというか補足というか理論の再構築(?)をさせていただきたいと思います。大げさですが、断酒ということを考えるにあたって非常に重要なことであると思われるので。

話の前提として、語句を統一しておきたいと思います。このブログでは主にアル中という言葉を使い、アルコール依存症という言葉も必要に応じて使いわけてきたつもりですけれども、世間的には、「アル中」のポリコレによる言い換えが「アルコール依存症」ですよね。ただし前回も書いた通り、アル中というと何か「属性」のよう雰囲気が漂い、依存症というと「病気(疾患)」になりますので、なかなか語句の持つ印象というのは重要であると思われますが、ここではその病気であるところのアルコール依存症という語句を用いた上で、それが果たしてほんとに病気なのかどうかについて検証(?)していきます。

「アルコール依存症=病気」は一里塚!?

もちろん「アルコール依存症=病気」ということは今や世間的な常識になっています。だから、意志が弱いなど本人の性格に拠るものではない、ということですね。これは私もそうだと思います。

ただし『依存症ビジネス』の著者であるデイミアン・トンプソン氏は、「アルコール依存症=病気」はAAがつくり出した公式だと指摘しています。その証拠に、と同書では論理展開するのですが、これについては後で触れます。

ともあれ、私もトンプソン氏の意見に賛成です。AAが「アルコール依存症=病気」としたのは一里塚であるからではないかと考えるからです。仏教用語で言えば方便ですよね。そう規定した方が、「酒をやめる」ということに対するアプローチがしやすいのです。当然、AAに参加している人はアルコール依存症であることを負い目に感じる必要がなくなりますし、もちろんヘイトからも守られます。

医薬業界も「病気説」を支持しています。医薬業界には病気というものをつくり出すという側面もあるでしょう。よく高血圧は治療する必要はない、それを医薬業界が飯のタネにするからディオバン問題みたいなことが起こるんだ、みたいなことが、週刊誌で指摘されますよね。真実かどうかはさておき、そうした傾向があるのは事実でしょう。

さてトンプソン氏は、「アルコール依存症=病気ではない」の根拠として、ヘロイン中毒だったベトナム帰還兵の多くがアメリカ社会に戻ると治ってしまったことを挙げています。自分を取り巻く環境が変われば治るということは、少なくとも身体的な病気ではないという考え方です。そしてアルコール依存症もその一つではないかと。

一方、医療では、アルコール依存症に対して主にカウンセリングと薬によって対処していきます。外科的治療は行われません。将来的に脳内物質と脳内回路の関係などが明らかになれば、脳に電極を刺すなどの方法で治癒することも可能なのではないかと思われます。ただし人類はロボトミー手術という負の歴史を持っていますのでなかなか抵抗が大きく、パッと転換するわけにはいかないでしょう。

それはともかく現在行われているカウンセリングと投薬による治療ですが、もちろん有効でしょうし、それで依存症を克服した方も大勢いるでしょう。そこをもってして、病気と捉えることはできます。

ただしアルコール依存症の場合、そうした方法以外の、つまり医療的アプローチに拠らない別メソッドもあることが大きな特徴であり、他の病気と区別されるのではないかとも思います。

情報を自己都合で解釈し、自分が一段上の人間だと定義する!?

その別メソッドというのが、一昨日も書いた社会的なアプローチです。つまり、自分が今、飲んでいる場合かどうか、メタな視点で判断するということです。当然、その危機感が大きければ大きいほど、飲酒抑止力になります。

そこで一番重要になるのは情報です。私の場合でもネット上の情報が断酒の後押しをしてくれました。これにはちょっとしたコツがありまして、ネット上の情報を「飲まない方がいい」という基準でかき集め、さらに「飲まない方がいい」という基準にそって解釈していく、というものです。エラソーに言うことでもありませんが。

そうすると、もう酒を飲んでること自体アウトオブデイトなんだ、飲酒という行為と時代が乖離しつつあるのだという裏づけがたくさん得られます。自分の都合の良い情報だけを取捨選択していたつもりが、客観的な現実が追いついてきているという手応えもマジあるのです。

で、そうした行為の行きつく先は、「自分は一段上の人類だ」という優越感の醸成です。それがやっぱり断酒モチベーションになり、さらにはカウンセリングや投薬の代替になります。私のように、それまで優越感を生む体験がきわめて少なかった人間はとくに。ま、そうした妄想を繰り広げられるのもまたビョーキだと言われればそれまでですが(笑)。

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