断酒が難しいのはそれまでの人生を否定することになるから。なのだろうか?

酒やめて、2520日

なぜ酒をやめるのが辛いかというと……

ここのところ、酒を飲む行為は自分のアイデンティティになる、だから飲酒は怖いのだ、といったことを何回か書かせていただきました(参考「「酒なくして何の人生か」という主張は、旧弊かどうかを判断する材料になりますよね、という話」「「呑兵衛=アイデンティティ」になってしまうから、飲酒はタチが悪いのですよ」)。これって飲酒や断酒の本質に関わることなのかなあと勝手に思っておりまして、今日もそのことについて若干考察してみたいと思います。誰にも頼まれていませんが。

酒を飲むことをやめようと決断する際、むろん私もそうでしたが、もう飲めないと思うとどうしたらいいかわからない、自分の後ろにぽっかり穴が開いたようだ、といった恐怖のようなものがあるのですが、さらにそれまで生きてきた人生の全否定のような気がしてしまうんですね。

これまで自分は酒飲みながらでも何とかやってきた(本当はやってきてないんだけど)、あるいは酒を飲んで交友関係が広がった、人によっては酒飲んで創作の神が降りてきた、みたいなこともあるかもしれません。

もっと単純に、酒が人生における楽しい思い出と紐付いているということもあるでしょう。

そんなふうに酒とともに生きてきた事実が、いつの間にか自分のアイデンティティになってしまうことが、酒さんの怖いところであり、他の物質と違うところなのかなあと、ここのところ主張させていだだいてきました。だから、なかなか酒をやめる気にはならない。

むろん昨今では、酒を飲む行為自体がレガードに分類される風潮もあり、酒飲んでるなんて古臭いと一刀両断することも可能ですが、その「古臭い」もまた自分の人生とともにあったわけで、そこに愛着を感じたりして難しいところであります(理屈ぽくてすまん)。

全否定できるからいい、という考え方もあります

でも、ですね、実はこれ、すなわち酒とともにあった人生を全否定することって、それなりに人生をラクにすると実感したりもしているのですよ。

酒を飲むことが自分のアイデンティティだとするならば、それを否定することは、ある種「脱却」ですよね。お釈迦様いうところの輪廻からの解脱であります。

そんなふうに高尚な(?)捉え方をしなくても、自分の生きてきた人生を否定してしまえば、後は何も怖いものがないのです。と、これでもかっこつけすぎの感はあり、そんないいもんじゃないけれども、そうした感覚は確かにあります。

今まで自分のアイデンティティになるほど執着してきたものをあきらめるのですから、もはや、この世の中に執着するものなど何もない、のです。こういう心持ちは、繰り返しますが、ものすごーく人生をラクにしてくれるのですね。

お釈迦様の話に戻れば、お釈迦様だって、四苦八苦するのは執着心あるがゆえ、と言っていますし。

そして酒という物質に執着しないということは、酒とともにあったこれまでの人生に執着しないということで、たかだか物質に執着しないだけで人生に執着しない心持ちを手に入れられるのは、ものすごーくおトクなディールだと考える次第であります(←損得に執着しとる!?)

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