「一生飲めない」は本当に恐怖なのか。

酒やめて、1896日。

“断酒中のアル中者”ですと!?

私が酒やめたとき、当初は「時限」のつもりでした。医者からも1年ぐらいは飲まないようにと言われていましたし、当然そのときは「んな馬鹿な!」だったけれども、一生飲めないとは思わなかったのです。病気起因でやめる人はそうですよね。病気が治癒すれば、飲んでもいいというわけです。「喪明け」なんていう言葉も聞きます。

ただ病気のなかでやっかいなのは、当然ながら「アル中」「アルコール依存症」というやつで、こいつは「時限」というわけにはいかない。「一生飲まない」が必要になります。

ただし誰も、俺はアル中だ酒やめよう、とはならないわけですよ。私にしたところで酒やめた時点では間違いなくアル中でしたが、だからといって、それで酒やめられたわけではなく、断酒の直接のトリガーになったのはアルコール性低血糖という「病気」でした。

そしてその場合、医者としても、一生やめなさい、という言い方にはならない。むろん私もそのつもりでした。

でも結論から言えば、私は一生飲まないつもりでいます。細かい経緯や背景はいつも書いているので省きますけれども、酒をやめるとは一生飲まない一択しかないことがわかってきたからです。それはアル中だから……という単純なものでもないのです。

と、話を進める前提として、なぜアル中だと一生飲めないかというと、適正飲酒(そういうものがあるとするならば)に戻ることが不可能なように脳の回路が出来上がっているからですね。ちょっとでも飲んだらもとに戻る、というか、もっと酷い状態になることは、もはや世間の常識です。このブログでもたびたび引用している小田嶋隆著『上を向いてアルコール』によると「アルコール依存は治らない。けれど、“断酒中のアル中者”として、一時的な断酒を一日延ばしに続行することはできかもしれない」だそうです。

社会的理由でやめれば、一生飲めないのは当然!?

私の場合、そのようにアル中だから一生飲めないということが大前提としてあるけれども、でもこれだけでは一生飲まないとはならないのです。何度も威張って言うことじゃないですが。

断酒をまがりなりにも5年以上続けられているのは、やはり社会的理由によるものが大きいからです。これもいつも書いてますけれども、「飲んでいる場合じゃない」からですね。だから、もう本当に悠々自適にならない限り、飲もうとは思わない。というか、飲むわけにはいかない。

ただ一生飲まないと考えたときには、やはり自分の身体に穴が空いたような恐怖を覚えましたよ。あれほど親しんできた酒と付き合うことができないと思うと、これは寂しさとかというよりも恐怖そのものです。

理性(?)では一生飲まない方がいいと考え、本能(?)ではなんともいい知れぬ深い恐怖にさいなやまされるということが、断酒を始めたときはあると思いますし、当然私もそうだったわけです。

でも、ですね、今、酒をやめて5年経って思うのは、そんなに恐怖なことなのかなあということですね。

確かに、俺は楽しく飲んでいるお前は一生飲めないと言ってマウントとってくる(?)輩もいます。そういうのはまあ非常にくだらない考え方ですよね。そして「一生飲めない」とは、そういうくだらなさから離れるという側面もあると思うのですよ。

結局のところ酒をやめるということは、そういうことも含めて、人生を俯瞰でとらえること、流行りの言葉で言えば、メタ認知することのような気がします。

というと、綺麗ごとのようですが、全然違ってむしろ逆です。

つまり、メタ認知できている俺ってかっこええやんと思うことが断酒継続につながるという、非常に俗なものなのであります。て、これも威張って言うことじゃありませんが(苦笑)。ただ、俗な理由のほうが実効性はあるかと。

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