酒の地位低下はわかった。じゃ「酒で死ぬこと」の地位はどうなのよ、という話。

酒やめて、1898日。

「酒飲み」として記憶されるのはどうなのよ?

先日、今年86歳になる父と話していて――そのとき父は飲んでいたのですが、そういやおじいちゃん(父の父・当然故人)て酒飲んでいたっけ? という話題になりました。父が言うには「あんまり飲んでなかったなあ」。でもその先代(父の祖父・私の曽祖父)は、こりゃまたよく飲んでいたなあ、とのことでした。そして父はポツリと、「俺が死んだら、よく飲んだおじいちゃんとして記憶されるんだろうな」と。

そうなのですね。酒を飲んでいる飲んでいないという属性(?)は、死んだ後もその人となりを語るにあたって意味を持ちます。

私などは、あの人はよく飲んでいたけどある時ピタッとやめたねー、で記憶されるのでしょうか。そうなれば嬉しいです。あの人はよく飲んでいてある時ピタッとやめたけどまた飲み始めたねー人間の本性は変わらんよ、なんて記憶されたんじゃたまったもんじゃありません。そうした恐怖(?)も、やはり断酒モチベーションになるのかなあ、とは思います。

さて、それでは「酒で死んだ」と記憶されるのはどうでしょう。実は我々の業界では、酒で死んだと言われる人間は多いです。直接の死因は病気なのですが「酒で死んだ」とされる。

そして酒で死んだというのは、ある意味褒め言葉のような側面もありました。「遊び人」だったね、という評価です。さらに昔では、酒を飲めるほど甲斐性があった、というふうな評価(?)につながっていたのかもしれません。

また日本の社会と日本人は、死者に対してきわめて優しいので、供養の意味も含まれるのでしょう。

「酒飲み」としてだけしか記憶されないのはどうなのよ?

ところがここに来て、そうした価値観が明らかに変化していますよね。「酒で死んだ」はやっぱりちょっと恥ずかしいようになっています。なにか生前の業績まで否定されるようにも思います。こう言うと諸先輩方に申し訳ないのですが、諸先輩方が亡くなったのは、こうした価値観が台頭する前だったということで(汗

ともあれ、私などはそうした諸先輩と違って仕事上の業績など何もないのに、それでアル中のすえに酒で死んだとなると、マジ、酒でしか記憶されない。これはかなりの恐怖です。

漫画『伝染るんです』(吉田戦車)のなかに、告別式で「パンが好きな人でした」としか記憶されていない人、という話があって、たいそう理不尽でおもしろかったのですが、実人生だとまったく洒落にならんです。

ちなみに「伝染るんです」「パンが好きな人」と検索すると、なんとこれがヒットするんですねー。「おばん道パンが好きな人でした♪」です。『伝染るんです』のおもしろさと「パンが好きな人」の理不尽さを的確に解説しています。いやいや、日本の知の蓄積というのはすごいですよ(参考「日本ほど、いい意味で「酒飲んでる場合じゃない」社会環境はないと考える理由」)。

話を元に戻せば、仕事を記憶されないのはまあ100歩譲っていいとしても、やっぱり残された家族のなかで「パパはよく飲んでたねー」が記憶の中心になるのはつらい、死んでも死にきれない。だから断酒も続けられるわけで。

どれくらい続けたら「よく飲んでたねー」を脱出できるのだろ? お子さんが小さいうちに、つまり「パパはよく……」と記憶される前にやめられた人は、マジうらやましいす。

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