酒やめて、2012日。
コミュニティで「特別な人間」と洗脳される!?
またぞろ承認要求充足と断酒の関係の話で恐縮なのですが、そしてちょっと前にも書いていますが(参考「承認要求を満たすための最高の方法は、間違いなく断酒です!」)、承認要求を満たしたいがために、何らかのコミュニティに所属するという行動パターンがあります。統一教会のような危険な宗教もそうだし自己開発セミナーの類もそうでしょう。そこで、あなたは選ばれた人間だと洗脳され、それで承認要求が満たされるという構造があると思われます。
では、断酒もそうかと言えば、確かにそういう側面もあると思います。だから断酒教だなどと言ってくる輩もいるわけでして。ちなみにその輩は自分の承認欲求を満たすために……かどうかは知りませんが、「俺は〇〇だあ」と年中アピールしてきます。その〇〇とは仕事の川上を受け持つ職種であり、そこに彼は誇りを感じ特権意識を持っているのですね。しかし実際に彼がやっている仕事は〇〇とはかけ離れた類のものなので、だからことさらに〇〇だあと無駄にアピールしてくるものと理解しています(性格悪い)。
ただ、その特権意識というのは、あるいは参考にしてもいいのでは、とも感じてます。
断酒は「戒律」とは無縁なのです
断酒教ということに話を戻すと、これは非常に難しい問題であり、私の文章力ではなかなか伝えきれないところがあるのですが、ただし「教」だとしても、原始仏教の「輪廻からの脱出(=解脱)」にも似ていて、決して「酒飲まない」という「戒律」で自らを縛るたぐいのものではない、ということですね。世俗のもろもろから離れて自由な価値観を手に入れられるところにその真価がある、てなことを言いたいのであります。
自由……と書きましたが、ちょっと違うかもしれません。断酒によって、何事にもとらわれず、そして何事もおそれることのない、いーんだいーんだそんなんで、いろいろ気にしたってはじまらねーよ、という諦観を身に付けられる。それが口幅ったいですが、「自分らしく」になるのでは、とも思いますねー。
このあたりは、なんというか、このブログにとってもコアな部分なのではないかなあと考えたりもするのです。まあこんなブログでコアもなにもあったもんじゃないですが。
このように見ていくとと、いかにも世俗離れしているのですが、先に書いた特権意識みたいなものも同時に生まれるのが世俗的部分でして、これが断酒モチベーションになったりするからなかなか一筋縄でいかないところではあります。もちろん、先の「俺は〇〇だあ」の輩のように、「俺は断酒者だあ」などとアピールはしないし、する気にもならないのですが(当たり前)。
断酒とは解脱的な心根を俗っぽい意識が支える、ということになるのでしょうか。矛盾しているのかもしれませんが、いーんだいーんだ(諦観)。
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