酒やめて、1194日。
「今日は車じゃない」ときの解放感たるや……
飲酒時代、仕事の都合で不本意ながら(?)普段は車で動いていた時期がありました。そしてたまにですが、客先などに電車で出かけるケースもありました。そうすると、その帰りの解放感たるや、たまらなかったのを覚えています。
昔読んだ小説に、車を置いて帰るときの解放感を、裸足で砂の上を歩くようという表現がありましたが、まさにそんな感じです。そういえば以前、渋谷の公園通りからちょっと入ったところに、砂浜カフェなるものがありました。店内に砂が敷きつめてあって裸足でくつろぐという趣向でしたが、ちょうどそんな感じでしょう。今、調べたら宇田川町に移っているようですね(ここ)。
当然ながらこの解放感のベースには、今日は飲んでもいいという思いがありました。
いや、もちろん車で出かけているときだって、家に帰れば飲むんですよ。でもそうじゃなくて、仕事が終わったら何やってもいいんだ、街が俺様を呼んでいるんだといった感じは、ちょっとたとえようがありませんでしたねー。
で、そういう時は羽目をはずしすぎて、経済的にもすっからかんになったり、翌朝のやっちまった感も半端ないのですが、でもあの車なし&夕暮れ時(とくに夏!)の解放感は、今思い出しただけでもミョーにワクワクしますね。そんなこと思っちゃいかんのですが(笑)。
まあこの辺は、飲酒習慣がある方なら分かっていただけるかと。
夜中に車ででかける解放感もまたある
一方、飲まなくなってからですが、これはこれで実は解放感があるのですね。飲まないのですから、夜中に車でどこへ出かけてもいいということです。
思えば私も大学生の頃は、飲み会以外では飲んでなかったので、よく夜中に車で環八沿いの中古車センター巡りをしたりしていました。当時は、ネットの中古車検索はもちろん、カーセンサーの類の雑誌さえもない時代でしたので、そうやって車を物色するのが楽しみだったのです。
今はそんなことはしませんが、たまに夜中にパフェ食べにファミレスに行ったりします。そうしたときのなんともいえない解放感は、やはりありますね。
と、ここまで書き連ねてきた解放感は、飲む解放感も飲まない解放感も刹那的なものです。
ただし飲まない解放感はそれだけにとどまりません。
いつも書いていることですが、今、コロナ禍で先行きどうなるか分からないので身辺身軽にしておくことが大切になっているわけですよね。そうしたときにやはり酒を飲む習慣があると、人生に錘をつけていることにほかなりません。経済的にも精神的にもです。
飲んでないと、この錘が外れた思いがする、そうした解放感もまたあるわけです。
というわけで、飲酒時代の解放感と今の解放感を比べると、そのときどきではイーブンかもしれませんが、人生を俯瞰したときの解放感は飲まないバージョンのほうが大きいという結論にあいなりました(笑)。
人生に自由を求めるタイプの人は、飲まないという選択が理にかなっているかもしれません。私もそういうタイプですので、今さらながらそれが分かったというところです(苦笑)。