酒やめて、1546日。
なぜ「丁寧な暮らし」が揶揄されるのかといえば……
「丁寧な暮らし」という言葉というか概念があります。私は最近、Twitterで初めて知りましたが、もう何年も前から話題になっているようです。そして今では、若干の揶揄とともに語られるケースも多いようです。
知ってる人は知っているのでしょうけれども改めて説明すれば、丁寧な暮らしとは「手間と時間をかけて日常生活に向き合う」というふうに定義されています。そしてその手のサイトを見ると、その象徴としてのアイテムに以下のようなものがあります。
ル・クルーゼやストウブの鍋、柳宗理、南部鉄瓶、曲げわっぱのお弁当箱、波佐見焼、リネン、野田琺瑯、中川政七商店、市場カゴ
うわーなんと、こんなの、昔、同居していた女性の“大好物”ばかりじゃないですか。なるほど彼女はこういうものに象徴される暮らしを目指していたのですな。そりゃ、私のような飲んだくれとはいろいろバッティングするわけだわと、今さらのように気づいた愚か者がここにいますよ、てな感じですかね(苦笑)。
とまあ、それは私事ではあるけれども、「飲んだくれ」と「丁寧な暮らし」とやらは、対極に位置するものであることは普遍性を持つ事実でしょう。
では、その丁寧な暮らしがなぜ揶揄されるのかというと、やはりそこに、そこはかとないリア充自慢、意識高い自慢が含まれるからですね。先の「アイテム」にしたところで、ことさらにそんなもん使わなくても……とも思いますし。また今、みんな生きるのに精一杯なご時世にあって、そんなことやってられるかーという思いも当然ながらあります。
丁寧な暮らしとは、時間的な余裕、経済的な余裕があってこそであり、んなもんねーよ、というのが、おおかたの捉え方なのでしょう。
それでも「丁寧な暮らし」はいいもんだ!
ただ、ですね、そうした「丁寧な暮らし」について世の中にただよう違和感に対して、断酒者としては、そうなのかなあと、逆に違和感を覚えてしまうのですよ。
これは、断酒者ならではのものかもしれません。その理由を以下、誰にも頼まれていませんが、述べてみたいと思います。
酒をやめれば、少なくとも時間的な余裕はガバガバ生まれます。
では大量飲酒者の場合はといえば、とにかく酒は時間を強奪しますので、結果的に「使える」時間が少なくなり、いつも時間に追い立てられて暮らしています。だから、暮らしを丁寧にする余裕などまったくないのです。経験から言っても。で、なにしろそういう経験をしていたものですから、酒やめたとたんに、ありあまる時間を手に入れることができるのです。
飲酒していない、あるいは適度な飲酒習慣がある人は、このわさわさ時間が湧いてくる感覚はないと思います。この感覚は、断酒者だけの特権(?)です。
そしてこうした余裕の時間を持てれば、女性生活雑誌で紹介されるようなお洒落なものにはならなくても、スピリット的には「丁寧な暮らし」になります。ならざるを得ないのです。だって暇だから。
一番大きいのは、掃除や身の回りのメンテナンスにかける時間が持てることですね。そしていつも書いているように、掃除というものはしょぼしょぼながら脳汁も出るので、飲酒の代替行為になりえます(参考「酒やめて、やることがなくてもお金もないときは、「掃除」がお薦めです!」)。なりえると思い込んでやれば、ですけれどもね。
ですから、リア充自慢や意識高い自慢みたいなことを離れて、暮らしを丁寧にするという素直なコンセプトとして捉えるならば、酒をやめれば「丁寧な暮らし」が実現するのですよ。
そしてそれは人生をいい方向に転がし始めるきっかけになるのでは、などといい方向に考える断酒者なのであります。