酒やめて生まれる「諦観」は人生の最大の武器になりえます(たぶん)。

酒やめて、2556日

酒やめてまる7年になりました

本日で、酒やめてまる7年になりました。標記の2556日を365で割ると、7.0027……なので、その間、閏年が一回あったということでしょう(オリンピックイヤーイコール閏年という原則がコロナ禍で崩れてしまったので忘れとった。あ、今年もや!)。

その7年間で自分の人生において起きた大きな出来事を、誰にも頼まれてませんが並べてみると、

・愛犬の死

・母の死

・娘の大学卒業と就職

・余命宣告を受ける→結果的に「死ぬ死ぬ詐欺」となり、まだ生きている

・娘の結婚

・父の老人ホームへの入居

になるでしょうか。悲しかったこと嬉しかった安堵したことあるけれども、当然のように今思うのは、酒飲んでいたらどうだっただろうということです。

まず、このような出来事に伴う諸々の細かな事務処理に対応できず、途方に暮れていた、あるいは失敗をやらかしていたのは確かでしょう。

精神的にはどうか。飲まないから悲しいことを乗り越えられたかというと、これについては分かりません。もちろん、愛犬の死に際しては酒を飲みたくなったし、飲んだほうがむろん一時的にはラクだったかもしれません。ただ、後でもっと辛くなることが確信としてはあったので、飲まなかっただけです。

ちなみに母が死んだときは、すでに断酒してそこそこ経過していたのであまり飲みたいとも思わなかったし、斎場で飲んでいる人を冷ややかな目で見ていました(性格悪い)。

さて、親はじめ親しい人との別れや、あるいは自分自身の命に関わる大病などは、当然、人生の後半で襲ってきます。これについて、どのように精神的に克服するかですが、そこで酒を飲むというのも一時的な逃避としては一つの手段でしょう。

では、断酒している場合はどうか。

この7年間だけが「生きている」!?

私は、ですね、断酒者として悲しみを克服する方法というか、いや、それだけじゃないな、人生のすべてのマターに打ち勝つ「杖」のようなものを手に入れたと思うのですね。それは「諦観」です。

諦めることが得意になるというか、まーしょうがない、いーんだいーんだそんなもんだろ(まー母の死をそんなもんだろで片付けちゃいかんが)てな心持ちというんですかねー。そういう考え方で生きるようになったと思います。上手く説明できないのですが、その反対を考えればわかりやすいかと。

つまり「諦観」の反対は「固執」あるいは自己正当化バイアスです。これには「自分だけは特別( ー`дー´)キリッ」という心持ちがベースにあります。そして小田嶋隆さんが『上を向いてアルコール』で書いていてこのブログでもよく引用させていただいていますが、そうした心理は酒飲みに「神秘的なほど」共通したものです。

それは、これまたいつも書いているように酒さんの戦略であり、お前は特別な人間だから特別に酒を飲んでもいいんだよ、特別な人間だから上手く飲めるんだよと酒さんは囁きかけてくるわけですよ。

いや、しかしホントに、人は「俺は飲んでもいい」と主張するとき、この「特別感」をかましてきます。恐ろしいことにふだんは謙虚な人間でも、このときばかりは傲慢になるのです。そうしているうちにその「傲慢」がその人の人格から「謙虚」を駆逐していきます。もちろん私もそうでした(もとから「ふだんは謙虚」ではなかったが)。

でもそのような生き方だと、常に自分の行動に対して理屈付けをし、その理屈によって自分が追い込まれてしまうということが出来してしまいます。

それは、私もそうでしたからわかるけどきついんですよ、人生として。理屈で対処しようとするとどんどん袋小路に追い込まれてしまう。

逆に言えば今は「諦観」という武器を手に入れた。それは、自分が特別でもなんでもないということがわかったからでもあります。そうやってきて7年間。それまでは、子どものときから自分は特別だとわりに思っていたのだから(成長期には必要なことだろうが)愚かさの極みではありました(汗)。

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