適正飲酒者・機会飲酒者にはなれない大いなる自信があるから、一周回ってスリップしない自信もまたあるという話。

酒止めて、1204日。

「自分だけは違う」と思ってしまうのが人間の常?

酒やめて一定期間、そうですね、半年とか1年経つと、もしかしたら俺は晩酌でビール1本飲む程度の、いわゆる適正飲酒者になれるのではないか、あるいは、飲み会など必要なときだけ飲む機会飲酒者になれるのではないかという気持ちが、むくむくともたげてくるとはよく言われます。

しかし、そうした自信のようなものが、いわゆるスリップを引き起こすこともまたよく指摘されます。医学関係者は、一度依存症になった人は適正飲酒などできず、もう一生飲んじゃいかんのだと力説しますし、それが定説です。

ただ、人間はどうしても「自分だけは違う」と思うのです。この辺はパチンコと似ているのかもしれません。

先日、パチンコ好きの仕事仲間とこんな会話をしました。

「今、営業しているパチンコ屋に人が集まってるらしいけど、普通に考えても絶対出ないように設定しているよね。なんでみんな、それが分かっていて行くのかなあ?」

「自分だけは違う、自分だけはそれでも勝てると思うのがパチンカーの心理なんだよ」

なるほど、そういうものなのかもしれません。

ただ私の個人的なことを言えば、適正飲酒者や機会飲酒者になれる自信はまったくありません。ですから逆に一周回ってスリップしない自信もまたあるのです。自信というのとはちょっと違いますね。それをちょっとお話ししてみたいと思います。あるいは参考になるかもしれないので。

飲んでパッパラパーにならなきゃ気がすまないのだ

要するに、晩酌にビール1本だけ飲む、飲み会の時だけ飲むような飲み方はできない……というよりも絶対にしたくないんですよ。

そもそも、今日はもうお酒はこの辺でやめておこう、あるいは、明日は飲み会があるから今日は飲まないでおこうなんてことができていたら、アル中にはなっていません。そして繰り返しますが私の場合、そういうことが「できたら」というよりも、そういうことを「したくない」のです。威張って言うことじゃないですが。

漫画『美味しんぼ』で、ヒロインの栗田ゆう子の先輩社員・田畑さんが「私はもうお酒はたくさん。お茶がほしいわ」と言うシーンがありますけど、それを読んだとき、ほんとに腰が抜けそうなほど驚きました。世の中にそういう思考パターンがあることが、ちょっと信じられない思いだったのです。原作者の雁屋哲さんも、たいがいな大酒飲みだというのに。

飲めば意識がなくなるまで飲むというのが私の飲み方でしたし、そうしないと飲んだ気がしなかった。もっと言えば、そうなることを「目的」にしていました。

「楽しむ酒」ではなく、典型的な「逃げる酒」ですよね。ビール街飲みではなく、ジン横丁飲みです(参考「「ジン横丁」に描かれた18世紀のイギリスに、今の日本があまりにも似てきていてヤバいんじゃないかという件」)。そして酩酊した時だけ、なんだか楽しい感じがしていたのです。

やっぱり酒飲む以上、パッパラパーになりたかったということです。飲んで友人の家になだれ込んだことがあって、翌朝その友人の娘さんから「〇〇さん(私のこと)さあ、昨日の夜、〇ンコと〇ンコしか言ってなかったよ」などと冷静に指摘されたりしますが、要はそういう飲み方をしたいわけですよ。「〇ンコ~♪」と叫ばずしてなんの飲酒か!という感じです。完全な馬鹿です。

もし私が再飲酒するとしたら、そういう飲み方になる……というよりもそういうのを目指すというのが正確なところです。

だから適正飲酒・機会飲酒という選択はない。そんな選択はしたくもありません。この辺は以前も書きましたが、減酒するぐらいだったら断酒の方がいいというのと通じるものがあります(参考「減酒なんてとても無理、断酒のほうがむしろ全然ラク、と断酒者として断言する理由」)。

当然ながらパッパラパーな飲み方の行く先は破滅ですよね。ですから私にとっては「飲まない」か「破滅」の二者択一しかないのです。で、今のところ、前者の方がいいという気持ちが勝っているので、断酒を続けられているという次第であります。ご参考までに(なんの?)。

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