すべての不幸は承認要求から始まる。でもって酒やめると、他者の承認なんて必要なくなるから不思議です。

酒やめて、1396日。

承認要求、この厄介なるもの

ちょっと前に、知り合いから会社の愚痴のようなものを聞かされました。たいして身を入れず漫然と聞いていたのですが(失礼!)、なんでも女子社員の一人がやめそうだと。で、どうも彼女は一人の男性に騙されている……とまではいかないのでしょうけれども、まあ一途になってしまっていて周りが見えていない。その男性に尽くすために会社をやめたいと言っている……てなことであり、今、辞められると困るんだよねえ……でした。

その女子社員にとって、男性がはじめて承認要求を満たしてくれる存在でありそれゆえに、ということのようです。

この「承認要求」というものは、もはや第二の本能と言っていいものなのかもしれません。人間は社会的動物であり、その社会性ゆえに生み出される欲求も動物的本能に近づいてしまう、というふうに言えばいいのでしょうか。そしてこれこそが、いろいろ不幸をもたらす源泉なのかもしれません。

たとえば女性が男に騙される(あるいはその逆)のも、高齢者が詐欺にひっかかかったりするのも、承認要求ゆえ、というケースはとても多いのではないかと思いますねー。

ですからある意味、詐欺業界(?)は承認要求充足のプロでしょうし、ここのところの研究を深めていけば、その手口はもっと巧妙化高度化していくのではないでしょうか。

ちなみに古い話で恐縮ですが、我々世代の学生時代は、キャンパスの危険といえば、やはりカルトでした。カルトって、まさに承認欲求を満たしたいという気持ちにすっと入ってきますよね。ましてや受験勉強ばっかりしてきて、学業という評価軸(だけ)で一喜一憂していた人間は、大学というそれまでとはまったく別の評価軸がある世界にポンと放り込まれると自分を見失いそうになります。そこへ、こういうものが近寄ってきて心をさらっていくのです。実際に心をさらわれた人間は、私の同級生でもいました。

これとはスケールが違いますけれども、たとえば船戸与一氏の冒険小説には、革命闘争に若い高潔な魂を捧げる人物が出てきます。その人間にとっては、革命闘争に身を置くことが唯一、自身の承認要求を満たす手段だったりします。たいていの場合、戦争などで親を失っていて、だから親から承認されたこともなく、革命≒ゲリラ活動が「親代わり」になっていて、読んでいる者を泣かせます。

大学のことに話を戻せば、今は、大学においては、カルトや宗教、学生運動などの危険性が相対的に小さくなり、やはり酒が最大の危険物ですよね。この辺のことは以前も書かせていただいています(参考「「大学生の危険」のなかで相対的に酒が大きくなっている件」)。

酒やめれば、承認要求からも自由になれるのだ!

ともあれ「承認要求」は非常に厄介なものですよ。人間の感情の中でも。でもそれがないと生きていけないのも事実ですし、不惑を超えても天命を知っても耳順っても、これに執着するケースも多いです。だから「わしを尊敬しろー」の老害になったり、先に記したように詐欺に引っかかったりもするのでしょう。

承認要求というものもまた、お釈迦様のいうところの四苦八苦のひとつなのかもしれません。

そして、お釈迦様が四苦八苦から解脱したように、この承認要求から解脱する一番簡単な方法は――、はい、出ました、断酒です(笑)。

以前も書きましたが、断酒すれば、わいは断酒というわいにとっての「大業」をなしとるんやでえええええという自信が圧倒的なセルフエスティームを醸してくれるので、他者の承認なんか、マジ必要なくなるんですよ(参考「セルフエスティームをアップさせるための、一番簡単な方法」)。

大昔、何の広告だか忘れましたが、「私の一番の応援団は私だ!」みたいなキャッチコピーがありましたけど、まさにそんな気分になれます。別に他人に承認してもらわなくても、わいがわいのことを最大限に認めてるんやから全然問題ないんやでー、てなもんですよ。

こうした心持ちは、まさに解放感を超えて解脱感とでも言うのでしょうか。非常に厄介な感情である承認要求からも自由になれるなんて、やっぱ断酒の威力は凄いわ、とあらためて考える次第であります。大げさでなく。

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