三浦春馬さんの死に際して元アル中として思う。「こころ」なんてものは簡単にその宿主を裏切ってくれるよね。

酒やめて、1264日。

こころ、この厄介なるもの

俳優の三浦春馬さんが自殺しました。3日前のことですかね。

彼が出演する『コンフィデンスマンJPプリンセス編』がコロナの影響で公開延期になり、やっとこの連休に公開されるとのことで、私としてもムビチケで安いチケットをポチりした矢先でした。三浦さん演じるジェシーは、トレーラーなどを観るとわりに重要な役ぽい感じです。

自殺の原因はおそらく永遠にわからないでしょうし、そもそも解明する必要もないでしょう。「原因は原因は」とメディアが鵜の目鷹の目になっていますが、あさましくもそらおそろしいことだと思います。

それにしても、と思います。今回、この事件を知って感じたのは「こころ」というものはなんとあてにならないものよ、ということです。あるいは人間が持っている一番厄介なものなんだなあということですね。

この辺のところは、自分でも上手く文章にできるかどうかその自信は皆無なのですが、個人ブログということで勝手にお許しをいただいたつもりで、ちょっと感じたことを書いてみたいと思います。

「心」と一概にいうけれども、まあ大きく分けて理性と感情ということになりますよね。そして平仮名で書く「こころ」は感情の方と規定できるのではないかとも思いますが、その感情を包括したもうちょっと大きな概念です。とりあえずそういうことにさせていただきます。そして我々が理性と呼ぶところのもので、これをコントロールしている……と実は勘違いしています。確かに「こころ」の範疇である、たとえば怒りとか悲しみは、どのような経緯があれ、最終的には理性のコントロール下に置かれると考えてもいいでしょう。怒りや悲しみは、酒の誘発要因でもありますが。

どうせコントロールなんかできないんだから

でも、怒りや悲しみのように「こころが暴れる」のだったらまだマシです。ときとしてもうどうしようもなく「こころが動かなくなってしまう」状況があるのですね。

私は、うつと診断されたことはありませんが、ただやっぱりアル中時代は常に偽うつ状態であったと思います。あるいは自律神経失調症と言われたことはあります。

そういうときの経験から思うのは、なんと「こころ」はあやふやで、頼りなくはかなげで、自分自身の中にあるものなのに自分の中にあるものではないような、もっと言えば、このこころを自分で管理していることすら傲慢なような気がしてしまいます。というよりも、それを管理できない自分の無力さに驚くという感じですかね。

で、断酒ブログなのでまあある程度酒がらみになってしまうのですが、常に過飲酒していると、そのこころの喪失感がますます大きくしまうという傾向はあります。

そして今生きている肉体を含めた自分が宿主だとすれば、その中にあるはずのこころがどこかに出て行ってしまう、あるいはその宿主を裏切ってしまう。そんなことを感じてしまいました。

酒をやめると、コントロールできない感は当然あるのですが、まあ何とかうまく付き合っていこうじゃないか感もまた出てくるのですね。上手く言えないですけれども。酒飲んでいないと、出て行ってしまいそうになるのをなんとかなだめすかせることができる……というのが実感です。

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