「一せんべろ」「二せんべろ」という金銭感覚の怖さ。

酒やめて、1009日。

昼飲み

飲酒時代、いや過飲酒時代、いえいえアル中時代の私の金銭感覚は、やはりちょっと異常だったと思います。たとえば財布の中に一万円あったとすると、これで「せんべろに4回行ける」というふうに考えていたわけです。

酒以外のことにお金を使うという発想がない

えーと「せんべろ」というのは今さら説明の必要がないかと思いますが、一応念のために言っておくと、要は千円でベロベロに酔っ払える、めちゃ安い飲み屋のことです。とはいえ、実際には2500円程度使います。それで私の場合、2500円が通貨単位であるところの「一せんべろ」になっていたわけです。

ちなみに私は近所のせんべろ集積タウンに電車に乗って行ってたのですが、今でもぼーっと電車に乗っていてそれが夕暮れどきだったりすると、無意識のうちにそのせんべろタウン最寄り駅で降りていたりして自分が怖いです。

さて、「一せんべろ」「二せんべろ」ですが、つまり他にお金を使うという発想がないわけですよ。

たとえば今、上野の森美術館にゴッホが来ています。アル中時代だと、ちょっとゴッホ観に行ってみたいなと思っても、ゴッホ展の入館料は1800円でほぼ「一せんべろ」ですから、そのお金で1回飲めるな、という考え方をしていました。

これは理屈ではなく、もうほぼ本能的にそうなっていたところが自分でマジ怖いです。つまり、酒を飲むと言う行為がすべてに優先し他の選択肢がなくなる。経験が非常にモノラルになってしまうわけです。

私は大昔、入社した会社の社内報の新入社員紹介欄に「趣味・飲酒」と書いたことがあります。これは結構、先輩社員たちから面白がられて、他部署の方からも酒席に誘ってもらったりしました。役得だったとは思います。

ただ、趣味が「飲酒」だと、それは徐々に「飲酒だけ」になります。たとえば、趣味としての「読書とテニス」、あるいは「映画と旅行」などは両立しますが、「飲酒」はそれ以外の趣味と両立しないんです。その性格として。当時の私が「上野の森美術館に絵画を観にいく」か「上野アメ横の立ち飲み屋で昼から飲むか」の選択を迫られたら、百回中百回、昼飲みを選ぶでしょう。「趣味・飲酒」とはそういうものです。

親が酒ばっかりだと、子どもの経験値も低くなる!

「趣味・飲酒」だと、本当に酒を飲むしか楽しみがない人間になってしまう。人生を豊かにしてくれるはずの経験が、繰り返してますがモノラルになってしまう。

これは本当に怖いこと。経験というもののは、仕事の糧、あるいは原資にもなるものですからね。仕事以外のインプットをたくさんしていないと、いい仕事はできません。

そしてもっと怖いのはその「モノラルな経験」が遺伝してしまうことなんですね。もちろん物理的生物学的に遺伝してしまうのではなくて、子どもの人間的な成長に必要な経験をもたらすことができなくなってしまうんです。

休みの日でも、「どこかに行こう」ではなく朝から酒を飲む。テーマパークよりもせんべろのほうがいいなあと常に思うような生活になる。たま~にキャンプなどに行っても、虫取りなどに行くのではなく、ひたすらビールをあおる。それは、子供に「経験レス」をもたらします。

実はそれがいちばん怖いことだと思うんですね。

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