正義中毒と飲酒習慣は手に手を取ってやってくる。これには理由がありました。

酒やめて、2844日

否定から入る人は仕事を停滞させます

世の中には「正義中毒」と揶揄される人がいます。自分の周りで起きる事象についてすべて「それは間違ってる!」と言わずにはいられない人ですね。

SNSなどでそうしたことを発信していく分には罪はない(?)のでしょうけれども、こういう人はリアルに付き合いのある相手にもそれを行使してきます。ヒジョーに迷惑です。

このような正義中毒に代表される、自分の倫理感や価値観に頑なにこだわる人が仕事にからんできた場合、しばしば仕事を停滞させます。

その人がプロデューサー的な立場にあり、そこですべての方針が決まるのであればいいのですよ。なぜなら責任が伴いますから。しかしそうでないのに、他人の意見にいちいち否定から入る人にはうんざりしてしまいます。

齢をとると当然、そのような傾向は強くなります。いわゆる「頑固」ってやつですよね。加齢によって脳の前頭葉が萎縮してくるからで、飲酒習慣はそれをに輪をかけるという構造があり、今やこうしたことは常識の範疇でしょう。

そしてこのような態度と飲酒習慣の関係は、物理的医学的な側面のほか心理的な部分でも結びついていると思うのですね。

むろんここで正義中毒(をはじめとした独善的なものの考え方)の原因が飲酒習慣にあると主張したいわけではありませんし、当然ながらもともと持っている人間性の部分が大きいでしょう。しかし原因の一部にはなりえるのではないかということを言いたいのであります。

ジジイには頑固になる自由もないのです

正義中毒ぽい人って飲酒習慣がある場合、俺はちゃんと飲んでいる、俺は迷惑をかけてない、ということを言いがちで、ひいては昔のお前はアル中だったけど俺は違うから大丈夫、と他者の過去を引き合いに出して自分の正当性をアピールします。

この場合の他者とはむろん私のことで、これがむかつくんで、このようにブログに書いて私怨を晴らすと同時にネタにしているわけですが、しかしそのような個人的事情と関係なく、これはある程度「真実」だと考えています。

「真実」とは、そのようなことは酒さんが言わしめているということです。

昔の私もそうでしたが、飲酒者は「酒を飲む」という行為を正当化しがちです。そしてその自己正当化がすべての考えのベースになるので、独善的になり正義中毒にもなる。いつも書いていて恐縮ではありますが、酒によって人格が魔改造されてしまうのですよ。

そして今の時代、正義中毒が社会の迷惑として認定されていることが象徴しているように、独善的な考え方を社会が受け入れないようになっていますよね。その迷惑度が、以前に比べアップしている。

独善的な考え方をする本人にしても、社会に柔軟に対応できず、そうした状況に加齢が加わるとサバイバルしていくことさえ難しくなり、貧困や孤独というかたちを取ってどんどん詰みに近づいていく。

つまり今の時代は、ジジイが昔のように頑固になる自由がないのです。アル中になる自由や楽隠居する自由がないのと同じように(参考「僕らにはもう「アル中になる自由」がない」「楽隠居世代の飲酒習慣を、死ぬまで働け世代に適用するのはやっぱり無理があると思いますよ」)

こうしたなか、社会悪であると同時に本人の生存も脅かす「独善的な態度」に飲酒が輪をかけると規定することもまた断酒モチベーションになったりするのでは、と考える次第でございます。理屈ぽくてすまんが。

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