酒やめて、2658日
「食」なんか機能でいいんだという考え方
以前、「「おやつの代わりにプロテイン」「小腹が空いたらプロテイン」」といったことを書かせていただきましたけれども、最近では、朝食(16時間ダイエットしているのでお昼近くだが)をプロテインと茹でたブロッコリーだけにするケースも増えています。それで、俺ってかっこいいやんと内心思っているのだから馬鹿の極みです。
まあしかし、そんな馬鹿の極みにも三分の理(?)があり、食事なんてそんなもんでいいんだという説も成り立ちます。
食事を楽しみというよりも機能として捉えるということで、スポーツ選手がプロテインとサプリを中心にしていたり、西部劇に出てくるガンマンが、豆の煮もの(だけ)をつまんなそうに孤食していたり、といったことと通じていると私は勝手に考えております。
これまで食事という行為は、人生の大きな楽しみと捉えられてきました。これはもう常識であり正義のような気もするけれども、「世の常識を疑え」を信条とする酒をやめた身としては、いや待てよ、と思ったりもするのです。
もちろん飲んでいた時代は、ブルゴーニュのフルボディで鹿のレアステーキ食いてえだとか、ふぐ刺しには奄美焼酎やろーとか、はたまたきんきんに冷えた缶ビールでマックフライポテトLサイズ二つ完食するでえとか思っておりましたが、もはやそのようなことにまったく興味がなくなってしまったのが不思議でもあります(参考「その食に対する執着は、酒によって引き出されていたものだったんやああああああ!」)。
さて、おばさまなどに多いケースですが、「食事を美味しくいただくためにはお酒がなくちゃ」「美食のためのお酒なのよ」という主張(?)をする人がいます。食と酒が結びついているわけで、私もそんなお品がいいもんじゃないけれどその延長線上にいて、金もないくせにマリアージュがーなどとほざいておりました。
でもって、おばさまはどうかしらんが、アル中まで行ってなくて酒を飲む習慣があると、食事を美味しくするために、ということが酒を飲む理由になったりして、そして酒を飲むエクスキューズになります。♪美味しいものがあるから酒が飲めるぞお、というわけです。これはこれで恐ろしいものがあったなあ、と。
「食」で騒ぎすぎたよ、皆さん
酒をやめるとほんとにそのような価値観から離れ、それがいいことなのか悪いことだよも分かりませんけれども、食事というものをそんなに大げさに考えなくてもいいんじゃない騒ぎすぎだよ皆さん、てな気分になります。「マリアージュ(信奉)」から「マリアージュ(プゲラ)」に一気にコペ転するのです(これはこれで馬鹿ぽいですが)。
ともあれ、「酒を絶対視する人と、酒を相対視できる人と」で書かせていただいた「酒」についてと同様、「食」も相対視できるというか、世の中やることいっぱいあるしなあ、みたいなことに思いが至ります。
食事というのは、自分でつくるとそれなりに時間もかかるし、外食するとそれなりにお金もかかる。なので私の場合、今は「できるだけ簡単に自炊」「野菜はちゃんと食べる」「栄養補助とおやつ代わりにプロテイン」を基本に、楽しさや喜びは求めていません。気分は西部劇のガンマンです。
繰り返しますが、世の中、食というものを絶対視していて、それを家族のコアのように神聖視するふしもあるけども――いや、家族にとってはそうでしょうし、家族のために食事を用意することは生きがいにも通じているのでしょうが、私のようなぼっち的には、そこからいったん離れて、その分、時間やお金もそうだけど、こだわりみたいなものを他に振り向けるのも悪くないかなあと考える次第ではございます。
北陸新幹線が延伸された敦賀に氣比神宮という有名な神社があります。氣比とは筍飯(けひ)から転じたものだそうで、主神の伊奢沙別命(氣比大神)は食の神らしいですね。
すなわち日本有数の神社で祀られるほど食は大昔から生活の中でプレゼンスが大きかった。というか生活そのものだった。そこから、だんだん美食が追求されるようになり、それはそれで文化としての色が強くなり、その到達点がマリアージュということなのでしょう。
しかし今、アスリートのサプリ摂取に代表されるように、人類はそこからも脱しようとしているのではないか。そしてその先頭切っているのが断酒erであるという身勝手にも考えております。
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