酒を絶対視する人と、酒を相対視できる人と。

酒やめて、2656日

飲酒は別腹になってしまいがちだが……

ちょっと前に「飲酒。この特殊な消費」「「飲酒は特殊な消費」には、その先がありまして」といった話をエントリーしました。何を当たり前のことをと思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、自分の中では、このことって歴史的なターニングポイントにも関わってくるテーマだなあと考えていて、ただし持ち前の文章力のなさから上手く説明できなかった部分もあるので、続きというか結論的なことを書かせていただきたいと思います。

飲酒習慣がある人間は、酒を特殊な存在として認識し、消費などにおいてもそれを別腹にしていると主張したわけですが、これは酒さんを「絶対視」しているということですよね。

アル中、アル依まで行かなくても毎日酒を飲むような人は、時間がなかろうが金がなかろうが飲むのですよ。むろん私もそうでしたし、飲酒時代の私のように「極端」でないにしても、俺は適正飲酒者だと言いつつ焼酎のお湯割り2杯(この時点で既に適正飲酒ではないし、脳への影響でいえば一滴でもNGなのですが)だけ飲むケースでも、毎日習慣のように飲むということで、酒は別腹=酒を絶対視しているということになると思います。理屈っぽくてすまんが。

一方で、以前に取り上げたことのある長谷川滋利さんなどのように、忙しいから飲むのやめたという人は、酒を相対的に捉えることができる人ですよね(参考「長谷川滋利さん「やることいっぱいあるので酒やめました」←コレ」)。私の友人で、普段は酒を飲むけれども、仕事が立て込むと飲むのはやめてその夜の時間を仕事に充てるという人間もいますが、それも酒を相対視できているからです(勝手な推測)。

人生の多様化と飲酒は親和性が低い!?

これは、たとえば娯楽ということを考えても同様です。今の若い人は、酒を娯楽として捉えた場合、いろんな娯楽体験と酒を一旦同じテーブルに置いて、どっちを選ぶかというふうになっていると思います。酒を相対視できているわけです。ちなみに娯楽であるゲームやテレビに酒という娯楽を組み合わせてしまうと無限大の時間浪費になってしまい、まさに私はそのパターンでした。

では、酒というものがなぜ絶対的になるかというと、むろん依存性のある(というよりも非常に強い)物質であることが大前提としてありますが、社会的(?)には、それしか娯楽のない時代が続いたということもあるでしょうし、酒を飲みながらテレビを視るのが国民のナショナルパスタイムというふうに洗脳されてきたこともあるでしょう。

ところが今は人生の過ごし方が非常に多様化していて(貧困化含む)、もはや酒もそれに埋もれるしかない時代状況になっている――ということを、私は先日から申し上げているのでございます。

そして、それに適合している人、すなわち酒を相対化できる人もいれば、旧弊から逃れられない人、すなわち酒を絶対化する人もいるというふうに、人類は二極化しているのだなあと思います。

ちなみにアル中→断酒erというところの者は、酒を絶対視していたがゆえに今は飲まないことを絶対的に絶対視していて、結果的に相対視できている人たちと似たような人生を歩めると勝手に考えていますが何か?

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