酒やめて、1968日。
『上を向いてアルコール』は度々引用させていただきました
昨日、6月24日、コラムニストで、我々断酒者にとってみればアル中→断酒の大先輩である小田嶋隆さんが亡くなられました。病気とのことで詳しくは分かりません。もちろん分かる必要もありませんけれども。
本ブログにとっては、小田嶋さんの著作『上を向いてアルコール』は引用率ナンバーワンです。たとえば「「インテリだから酒やめられる」@小田嶋隆氏の主治医←なかなかツボな理屈」「「断酒者=インテリ」という、非常に都合が良い理屈を、さらに深掘りしてみると」「計画的にやった方が、実は人生が「単純化」することにあらためて気づいた断酒者がここにいますよ(苦笑)」などです。
アル中(→断酒)を扱った傑作著作は他にもあり、中島らも著『今夜、すべてのバーで』、我妻ひでお著『失踪日記(シリーズ)』、まんしゅうきつこ著『アル中ワンダーランド』が有名ですよね。ただしこれら著作は、アル中をテーマとした「物語」です。
一方、『上を向いてアルコール』は形態としてはエッセイ集なのですが、アル中をテーマとした文化論です。アル中なんて文化ともっとも遠いところにいる存在なのに、それに「文化」を見出してしまうところが小田嶋さんの才能といったところなのでしょう。
ただし私見ですが、タイトルだけはなんかいただけないのです。おそらく編集者がつけたのでしょうけれども、昭和的な上手いことゆーたったー! 感満載で、どうにも違和感を覚えます。このようなごろ合わせというか言葉遊びは、今の時代、あまりお呼びでないのではないでしょうか。昭和的といいましたが、もっと古くそれこそ百人一首の世界ですよ。
小田嶋さんは文章で大業を成したのだった!
それはともかく、小田嶋隆さんが亡くなられた昨日のニュースなどを見ると、小田嶋さんのことを「反権力の論客」としたものがありました……というか大勢を占めていました。
これもねー、めっちゃ違和感を覚えるんですよ。なぜ小田嶋さんのことを、そんな紋きり調で評価してしまうのかなあ、と。
一読者、一ファン、一断酒後輩(?)として思うのは、小田嶋さんは「反権力」というふうにくくられる「陣営」とはもっとも離れた場所にいた、そこからもっとも自由だった。
ではどの「陣営」にいたかというと「小田嶋隆陣営」です。小田嶋さんの自分軸はまったくブレず、だからこそその文章が類まれな説得力を持っていたのだと思います。
とまあ私がそんな小田嶋論を展開しても詮ないことですが、断酒者的に言えば『上を向いてアルコール』においても、その小田嶋隆という自分軸で断酒というものを理路整然と分析していて、それが断酒継続に結び付いている、そして誰にも普遍性を持つ断酒の「秘訣」になっているところが、同著作の、そして小田嶋さんの凄いところなのだと思います。
加えれば、小田嶋さんは圧倒的に文章が上手いですよね。私の高校時代の友人で元雑誌編集長も、あの人マジ上手いよねーと常々言っており、そのようなプロの目から見て(読んで)そうなのだから掛け値なしなのでしょう。
実際、私のような者が言うのもナンですが、文章の持つ力というものをとことん引き出していたと思いますよ。我々がなんとなく抱いている心のなかの「もやっ」を的確に言い当ててくれていた。小田嶋さんの文章を読むと、「文章は経国の大業、不朽の盛事」という言葉を思い出すほどです。
だからこそ、『上を向いてアルコール』はタイトルが残念……です。繰り返しますが、もはや今、そのような「上手いことゆーたった」はアウトオブデイトになりつつある。百人一首の時代から、あるいは中国の詩の「韻」の影響もあるかもしれませんが、日本において綿々と続いてきた文章に対する期待のようなものが、一大変革期を迎えているからだと思うのですね。背景には人間の考え方がコンピュータのアルゴリズムに近づいていることがあると考えます。
でもって、このような「文章」の一大変革期において、文章の力を最大限に引き出していた小田嶋さんが亡くなられたことは、ものすごーい損失だと思ったりするわけです。
小田嶋さん、残念です。そしてお疲れ様でした。安らかにお眠りください。
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