「ストロングゼロだけあればいい」では「ストロングゼロだけ」の生活もできないでしょ、きっと。

酒やめて、1406日。

ストゼロはコンテンツとしても魔力を放つ!?

一昨日、ストロングゼロについて書かせていただきましたけれども、本日もやっぱりストゼロです(笑)。いやしかし、ストゼロというのは飲料としても人を怪しく惹きつける魔力(悪魔力?)があるのでしょうが、一つのコンテンツテーマとしても魔力を持っていますよね。何せ芥川賞作家が取り上げるくらいですから(参考「金原ひとみ著「ストロングゼロ」が導く飲酒の世界の劇的変化を、高見の見物しようじゃないか!」)。

それにしても、商標登録された酒の名前が小説のタイトルになるなんて、かつてなかったことだと思いますよ。「神亀山廃純米酒ひやおろし」とか「シャトームートンロートシルト1973」などあっても良さそうですけれども、当然ながら、ないです。いつぞやストロングゼロがRTD缶チューハイで史上ナンバーワンの売上げとなりギネスに載ったなんていう話もありましたけれども、同様に小説のタイトルになったのも快挙(?)かもしれません。「ドルチェ&ガッパーナ」と並び立つほどでしょう。

そんなふうに芥川賞作家でさえ着目するのですから、下世話なアル中→断酒者の私なら堂々とブログネタにできるってものです。

さて、ここで話はがらりと変わるのですが、10年ほど前、「意欲格差」ということが、少なくとも我々の業界では話題になりました。精神科医で教育評論家の和田秀樹氏が提唱したものです。

当時も今と同じく「格差格差」と盛んに言われていましたが、収入など物質面ではなく、子どもや若者の精神的な格差も生じており、それが上昇志向という社会の活力を奪っているといった主張であり、そこに警鐘を鳴らしていました。

確かに今、生活が豊かとはいえなくても現状満足している若者が多いのは事実でしょう。これは国民性とも関係あるのかもしれないですが、バブル以降、いわゆる茹で蛙理論でゆっくりと精神的に殺されていったのかもしれません。

今、何しろ正社員であるだけでもありがたいみたいな話が世の中ではまかり通ってますからねー。若者ではないけれども、正社員でない定収入皆無の道を20代で選び、そのあげくにアル中になった私としても、これはよくわかり、身につまされる思いがします。昔の同僚などはみんな出世していますから(苦笑)。

ストゼロだけ飲んで生きるという究極の夢(?)は可能か

さて、話があちこち行って申し訳ないのですが、二年ほど前にB(ベーシック)ライフというスタイルがやはりプチブームになりました。ミニマムな生活でも幸せに過ごせるいう価値観が示されたのです。

先の和田先生も著書『意欲格差』で言及していますが、ずーっと受験競争、受験地獄などと言われてきて、実はそれが日本の国力を支えてきたのだけれども、ゆとり教育も含め、もうそんなにがんばらなくてもいいんじゃないかムーヴメントが世間に蔓延し、実際、がんばらなくても生きていけるようなっています。そして、なんというか下流的価値観を共有することのまったり感を楽しむ、というふうにさえなっています(参考「「下流」はすでに優良コンテンツ!? そのまったり感を共有するのもいいけれど……」)。

で、そのまったりライフの象徴としてストロングゼロがあったりもします。実際、私など断酒してこんなブログを書いてますけれども、やっぱりストロングゼロだけ飲んで暮らせればいいなあなんてたまに思ったりもしますよ。

ただですね、確かにミニマムに暮らすことはできる。しかし、そこにストゼロはじめ酒がからむと、そういうライフスタイルは、絶対何年も続かないんですね。そのうち肝臓が悲鳴をあげます。あるいは脳がやられてしまいます。そして本当の廃人になってしまう可能性もあるわけです。

和田先生も指摘している通り、ちょっと前までは、競争しなければ普通の生活でさえ手に入れられないという思いが日本人の遺伝子に刷り込まれていました。しかしながら今はそうではなく、最低の生活なら手に入るのかもしれない。福祉も充実していますし。しかし繰り返しますが、ここに酒という「変数」が入ると話がおかしくなります。

大昔ですが、とある教育機関のキャッチコピーに「そこそこでいい、では、そこそこの未来さえ手に入りません。」というものがありました(不肖ワタクシ作w)。同じようにストロングゼロだけ飲んで生きていたい、では、ストロングゼロを飲む生活さえやがてできなくなってしまうということですよね。

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