酒やめて、1978日。
誰かに指摘されるのを常に恐れていたのだった
本当にいつも書いていて恐縮ですが、アル中とまではいかずとも酒を常飲していると、飲んでいる自分を正当化するために人格が傲慢になります。酒さんに人格を魔改造されてしまうのです。そしてそれが普段の生活にも顔を出し、人生すべてを覆うようになります。「俺は飲んでもいい人間だ」ということに発する「俺って特別」が仕事などにも出てきて、周囲を鼻白ませます。
で、今日書きたいのは、それとも逆もあるということです。逆というのも変ですね、表裏一体としてのものです。
つまり酒を飲んでいると、そして問題飲酒に片足突っ込んでるなという自覚があると、なんとなくいつも後ろめたさを感じるのですよ。ほんとに飲んでていいのかなあ、やがて破滅するんじゃないかなあ、それを誰かに指摘されるんじゃないかなあといつも思っているわけです。そしてそれを跳ね返そうとして傲慢になるのですが、そうなり切れない場合、後ろめたさを抱え込みます。
この後ろめたさというのは、中高時代に宿題をやってないとか進路希望出してないとか服装が乱れているとか、そういうことを常に教師に指摘されそうで、ビクビクしてるといった感覚にも似ています。個人的な経験で言えば。
「こなれ感演出(?)」も命がけだったのだ
たとえば服装に関して色気づく高校生ならば、オックスフォードのボタンダウンとかを着たいわけです。ただ、オックスフォード織りの綿のシャツなんてものは洗濯するとしわくちゃになる。今でいうなら、こなれ感てやつですね。そうすると、それを国学院出身の漢文教師などに指摘されるのです。だから、その恐怖(?)と、オレ、イケてるみたいな中二病的心理、さらに元来の小心者が重なってビクビクなのでした。
あの頃に戻って、先生、これがこなれ感てやつですよこなれ感LEON読んでないんですか、って言ってやりたいです。
まあだから余談ながら、今、電車の中とかで、ラルフローレンのオックスフォードのボタンダウンを着て一見制服じゃないみたいだけど袖のところにペンマークがあしらっていたりする……などという塾高生を見ると、いかにも天真爛漫で育ちがよさげで、ビクビクなんてまったくしない高校生活を送ってるんだろうなあと思い、昔の我が身と照らし合わせてコノヤローな気分になります(だいたい慶応というところの組織は、大学構内のマンホールの蓋や大学病院のベッドの枕にも、例のあのマークを入れてますけど、ああいうのってどうなんでしょうね←余計なお世話)。
とまあ、そんな後ろめたさベースの生き方が習い性になっていて、せっかく大人になってしわくちゃのボタンダウンだって着ようと思えば着れるのに(ただし今着たら、こなれ感どころかビンボ臭いジジイになってしまう。上手くいかんものですな)、今度は酒飲み出したがために、いつも誰かに酒飲み癖を指摘されるんじゃないかと思いつつ生きるようになり、その「後ろめたさ」のようなものが人生すべてを覆ってくるわけですね。
そう考えるとなんだかものすごく人生損してたなあ、なのです。とてもその「後ろめたさに覆われた人生」は「飲酒による一瞬の快楽」とトレードできるものじゃありません。今、考えると、ですが(苦笑)。だからやっぱりもっと早くやめられたら……ですね。今は、何も後ろめたくなく、何も恐くなく生きていられて、それがとても心地良いので。
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