酒やめて、2308日
博多といえば「飲み」なのだった
私事ながら2週連続で博多に来ております。この時期はお客さんとの絡みでどうしてもそうなってしまいます。そしてそんな生活をもうかれこれ20年ぐらい続けています。ということは、飲酒時代からです。
で、博多といえば名にし負う飲酒タウンであり、飲んでいた時代は当然のように毎晩「出撃」していました。飲みに博多に来ているのか、仕事に来ているのか分からない状態でした。
そういえば昔の飲酒友で、酒を飲むのためだけに(「角打ち」探訪のためだけに)、LCCのセールを検索しまくって年に数回、博多に来るという人間もいました。しかしそれはそれでありなのかもしれません。というのは、私のように仕事にかこつけて「出撃」すると、当然ながらいろいろ齟齬をきたすからです。
すなわち、頭の痛い状態でお客さんに会ったり、客先でトイレを借りたり、その日のうちにしなきゃいけない書類整理ができず仕事が遅れたり、といったことで、その頃を思い出すと、まさに頭が痛くなります。これは比喩ではなく、二日酔いと似たような頭の痛さが呼び起こされるのです(今でも)。
一方では楽しい思い出もあったりするわけで、こうした思い出と紐づいて再飲酒を促したりするところが、酒さんの悪質なところなのでしょう。
自分は「飲んでもいい人」なのかどうか
ただし冷静になって考えてみると、自分の加齢のこともあり、当時と同じように飲みながら今、仕事ができるかというとそれは完全に無理ゲーです。
いや、上記のように当時でさえできてなかった。そして周囲に迷惑をかけ、私の場合、フリーランスですから、なんの注意を受けることもなく、仕事の発注主が妖精さんのように黙って離れていきました。
だからそれはそれで自分が悪いんじゃあで諦めるしかないのですが、とりあえず今は、取り戻せないまでも誠実にやろうと思っておっており、その今の基準からすれば、飲酒習慣があると絶対にできないです。
そして経済面でも、酒でのヤラカシに加えコロナ禍や私自身の加齢もあって仕事は少なくなっていますし、年金や資産もはなはだ心もとないことを考えると、今飲むと詰むという客観的事実もあります。
と、当たり前のように聞こえるかもしれませんが、ここにも罠があります。
終身雇用→年金リッチ世代なら、普通に飲みつづけられるでしょう。そしてその下の我々世代は、どうしてもその基準を当てはめがちです。しかし、我々年代には前世代と同じように飲んでいても大丈夫な人とそうじゃない人(例 : 私)がいる。そこは自分で判断しなきゃいけないし、世代が下がるにつれその重要性は増すでしょう。
具体的に言えば、たとえば東京のせんべろタウンの一つ溝の口にある日高屋は他の地の日高屋に比べて「飲み指向」が強く、午前中から生ビール(日高屋のなかでは高級メニュー)を呷っている高齢者がいますが、それは高齢者という現代の特権階級だからできることです。飲酒時代はそういうジジイになることを目指していましたが、これも無理ゲーなのですね。
が、逆から見れば、いつも書いていて恐縮ですが、飲まなければ生活をミニマムに組み立てられる。そうすれば、経済的にも時間的にもエネルギー的に自分裁量の範囲が飛躍的に増える。この自由もなかなか心地よく、それも飲まない理由になったりもします。
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