酒やめて、2600日
え、俺って案外「続ける」適性あった!?
今日で酒やめて2600日となり、それがどーしたって話でもあるのですが、ブログも948本書いており、それなりの感慨にとらわれるわけですよ。よー続いたなあ、と。というのも私の場合、子どもの頃から親や教師に「根がない」と言われ続けてきたので。そして持前の素直さもあって(?)、俺はなにをやっても続かん人間だと自分を「規定」してきたのです。
が、よくよく考えると「続いている」のは断酒に限ったことではなく、サーフィンだって40年ほどやっているし、乗り鉄活動も子どもの頃から定期的に行ってきたし、まーこういうのは、いわゆる趣味なんで威張れることじゃないけれど、勉強というのなら英会話の勉強も社会人になって以来、ほそぼそとながら続けている。
なので、あれっ俺って案外続けられる人間、エンデュランス適性あるんじゃね? などと思ってしまうのですよ。
まあジジイになってそんなことに気づいても何が変わるわけでもなく、まったく親や教師はなーんもわかってなかったなーくらいのことなのですが、いずれにしてもその気づき(?)は、断酒という行為によってもたらされたものと言っていいのです。
自己分析の一環としてやってみるのもいいんじゃないかと
金八先生の有名なフレーズに「人という字は互いに支えあって――」というものがありますが、それと同じ出身のものに「Discover」があります。よく校長先生やPTA会長(なーんもわかってない人たち?)が卒業式などでトクトクと話すたとえ話に「ディスカバーという単語は、カバーをディスる、すなわち覆いを外すという意味で」があります。以下、「学校はまさに子どもたちを覆っている覆いを外す、すなわち可能性を広げる場であり」(校長先生バージョン)、「子どもたちは先生方によって覆いを外していただいた、すなわち可能性を見つけてもらったのです」(PTA会長バージョン)と話が続くわけですが、その伝でいけば、私などは「断酒」によって資質を発見してもらったわけですわ。
繰り返しますが、ジジイになって発見されたもなにもあったもんじゃないですが、若い人は違いますよね。断酒によって自分でも気づいてなかった自分をDiscoverしてもらえば、それをもとに人生や生活を組み立てられるのですから、これは非常に大きなことです。
世の中、自己分析ブームで、例の自分の人生の浮き沈みを時系列で書いてみましょうなんていう手法が主流を成していて、ずーっと沈みぱなしのわしはどーすりゃいいんじゃあ(もちろん私もそう)といった恨み辛みや揶揄の対象になったりもしますが、そんなトラウマを呼び起こしそうな自己分析よりも、断酒(期間限定でもいい)をしてみるほうが、トラウマを感じることなく「本当の自分」(これもこっばずかしい言葉ではありますが)を発見できるんじゃないすかねーと、余計なお世話ながら考える次第であります。
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