断酒と「交友コスト」の関係について考えてみると。

酒やめて、2416日

「外で飲まないとつまんねーだろ」なのか?

断酒して、よく周りから言われることに「酒飲まなくてつまんねーだろ」というものがあります。またこの発展形(?)として「外で(仲間と)飲まないとつまんねーだろ」と言ってくる人間もいます。この「外で(仲間と)飲まないと」にフォーカスして、誰にも頼まれていませんが考察してみたいと思います。

私自身のことを考えてみると、断酒したばかりの頃はわりに飲み会にも行ってました。その時はノンアルコールやホッピーソトで対応する(大げさ)というかたちでした。ただ、だんだんそういうことも少なくなってきて、今は、いわゆる飲み会に参加するのは同窓会だとかそれに類するものだけです。

また友人知人とは、飲まない人とご飯を食べたりとか、そんな感じですかね。でもそれもあまりないです。この辺はもともと友だちが少ないという事情もあるのですが。

さて、最近よく言われるのが、交友関係をつくる、交友関係を維持するのにもコストが必要だ、そして日本人はそれさえもできない人が多くなっているということです。私などもその範疇に入っていると考えられます。

その交友、本当に必要なの?

でもって考察(?)したいのは、そもそもそれってコスト、つまりたとえば「外で飲む」のコストをかけてまでやることなのかどうか、なのですよ。

いや、別に好きでやっている人はいいし、アレコレ申し上げるのも余計なお世話ですが、でも「外で飲まないとつまんねーだろ」と言ってくる人も、こちらからすれば、余計なお世話ですからねー。

話を戻して自分の飲酒時代を考えると、交友のために酒があるというよりも、酒のために交友があるといった具合でした。要は、飲み相手は誰でもよかったのです。というと傲慢ですが、相手も当然そうだったのでしょう。案外そういう人は多いと思いますし、「外で飲まないとつまんねーだろ」と言ってくる人などはまさにそのクチです。

そのような飲み方をして、オタを上げるわけですよ。世の中の仕組みなどにダメ出ししてそれで自分が一端の人物になったような気がするというパターンですね。これがさらに深度化(?)すると、そんなこともどうでもよく、したがって飲み相手も必要なくなって、ただガタゴト行き交う南武線を眺めながら、次にホッピーのナカを頼むのはどのようなタイミングがベストかみたいことを考えながら、一人でひたすら飲むというパターンになったりしますが。

それはともかく、酒のための交友、あるいはそれを通じての自己確認みたいなことにコストと時間をかけることが必要かどうか、です。

もちろん、これに対する考え方は人それぞれであり、飲みながらの情報交換ガー、とか、議論ガー、みたいことを主張する人も、我々よりも上の年代には多いですけれども、そうしたことを金科玉条にする(今となっては、それも酒さんの「飲ませ戦略」だとは思いますが)のがはたして妥当か、そのコストに見合ったものなのか、吟味するチャンスをもらえるのも、断酒の一局面だと考える次第であります。

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