若者が「飲酒行為=スマートじゃない」と認識しているのであれば、それはどういう理由なのか。

酒やめて、1452日。

デジタルネイティブの考え方と飲酒行為は親和性がない!?

以前、「若者の〇〇離れ」(参考「世の中がひたすら快適化を求めて走っている今、酒は人生を快適にするのかしないのか」)について書かせていただきました。そしてその中には酒が含まれています。

「若者の〇〇離れ」のうち、たとえばクルマ離れなどは、どうせ買えないからクルマ所有についてニヒルな目で見ているといった分析もあるようです。その背景には、可処分所得の減少というものがあるでしょう。今の日本は、給与水準も先進国の中で最低レベルとなってしまいましたし、それに比して社会保障費負担が大きすぎます。しかも、社会保障費負担が大きい代わりに高福祉であるという北欧型社会に移行するのかと思いきや、実は負担だけが大きいという、先進国の中でもとんでもない“実験”をやっているのが実情ですよね(怒)。

まあそれはともかく「若者の〇〇離れ」です。その一環として、飲酒行為をスマートじゃないと認識しているのであれば、それはどういう理由なのかという点について、私の仮説(?)を披露させていただきたいと思います。誰にも頼まれていませんけど。

今の、たとえば大学生や社会人になったばかりの世代はZ世代あるいはデジタルネイティブなどと称されます。生まれたときから携帯電話やスマホがあった世代です。

飯山陽さんの『イスラム2.0』に示されているように、イスラム圏の場合、今はSNSというものが原理主義の拡散装置になっています。かつて、グーテンベルクの活版印刷技術が聖書原理主義を拡散し、プロテスタントという一派をつくったことと似ています。ということは、SNSは社会変革を起こす大きな武器になり得るわけですよ。そこに、今のあまりにも大きな世代間の不公平感が重なると、何か起こりそうな気もするんですがね。わくわく……(笑)。

話をもとに戻せば、デジタルネイティブ世代は、おそらく知らず知らずのうちに考え方もコンピュータのアルゴリズムに近いものになっている、つまり論理的思考というものを重視するようになっているのではないかと思います。それに比べると、たとえば団塊の世代に支えられているオールドメディアの論調はいかにも情緒的ですよね。それを若者が嫌うのもよくわかります。

「酒ダサい」の価値観を植え付けたい!

とにかくそのような思考回路になっているとするならば、不合理なものは、積極的に自らの生活から排していくと考えられます。クルマだったり持ち家だったりというものも「不合理」に分類されているのかもしれないし、異性やセックスもあるいはその範疇に入っているのかもしれません。

仮にそういうふうに論を進めると、飲酒なんていうものは、もう不合理も不合理、不合理の極みですよ。

飲酒を介したコミニケーションというものは我々の世代までは重視されてきました――オールド世代であるところの政治家の、コロナ禍における会食が問題になっていますが、それだけ「会って話せばなんとかなるやろ~」メンタリティに支えられているということなのでしょう。

しかし、若者はなにしろデジタルネイティブですから、それにSNSが取って代わっているわけですよね。だから、若者の酒離れ(とそれに伴う、酒を介したコミュニケーション離れ)はきわめて「合理的」なのです(そうなのか?)。

いや、でも一人の親としても「酒離れ」してほしいと思いますねー。酒というのはいつも書いているように時間を強奪します。一方、デジタルネイティブが生きていくこれからの社会は、コンピュータのアルゴリズムに付き合う分、作業量勝負の側面があります。

団塊世代やオールドメディアが好きな「感性の時代(笑)」だと、一直線に「答え」にたどり着くことが可能だったかもしれませんが、デジタルな時代はそれは通用しないわけですよ。て、「感性の時代(笑)」に育ってきた人間が、「たぶん」で書いているのであんまり当てにならんですが。

そのような時間と労力をかけてデータとエビデンスを積み上げなきゃいけない社会においては、飲酒習慣というのはもう不合理そのものであって邪魔です。逆に言えば昨日も書いたように、飲酒習慣がない若者は新しいタイプの人類として、人生において大きなアドバンテージを持つのではないかと思うのです。ですからこれも昨日も書いたことですが、「酒ダサい」「酒飲む=不合理」の価値観を植え付けることが大人としての責務ではないか、と。

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