酒やめて、「いつ死んでもいいんだ」とうそぶいている場合ではなくなった件。

酒やめて、1840日。

節制している人間を軽蔑していた、ホンモノの馬鹿

一昨日もちらと書きましたけれども(参考「✕ 健康のために酒やめる。〇 人生のために酒やめる」)、酒呑みというところの者は非常にデスペレイトな価値観を持っていて、俺なんかいつも死んでもいいんだと、半ば格好つけ、半ば本気で思っています。エビデンスは私ですが、まあおそらく共通したものでしょう。そういうことを公言してる人間は、過去のアル中仲間にもいましたから。

で、飲んだくれている限り、たぶんそんなに長生きはできないだろうなあと思っていますし、むろんまともな老後を迎えられないんだろうなあとも考えている。その確信を糊塗する理論が「いつ死んでもいいんだ」であり、そういう計算のようなものも今考えると非常にダサいですね(苦笑)。

そしてさらにダサいことに、健康のためという理由で節制してたり運動してたりしてする人間を軽蔑視します。

運動といえば私の場合、飲みながらもサーフィンだけはほんとに細々と続けていたのですが、サーフィンは一般的なスポーツのイメージとちょっと違っていて、なんというか非常にデカダンなものであり、わりと飲酒行為に近いものがあるのですね。つまり飲酒行為もサーフィンも人間をジャンキーにしてしまう。だからこそサーフィンは酒の代替行為として非常に有能でもあるのですが。中毒は中毒をもって制す、というわけです。それでも、サーフジャンキーのほうがアル中よりも一億倍マシであることは言うまでもありません。

ともあれ、ちゃんとやっている人間をかっこつけて軽蔑するようなところが酒呑みにはあります。大人を通り越してジジイなのに、つまらない大人にはなりたくないみたいなことを心のどこかで思ってるわけですよ。いい齢して中二病なのです。ほんまもんの馬鹿ですわ。

やりたいことが多すぎて、だから人生を続けたいのだ

でも酒やめた今は、まあ長生き……というかできるだけ長く健康でいたいとは思いますね。たぶんこの思いは、酒飲まない人、あるいは真正の機会飲酒者よりも強いのではないでしょうか。というのは元アル中の場合、人生で「やってなかったこと」が多すぎるからです。飲酒によって機会損失してたのですよ。

その中には、取り返しのつかないこともあります。それはたとえば子どもにいろんな体験をもたらすことだったり、まあ(元)奥さん孝行もそのうちでしょう。ですから今、Twitter上で私が勝手に断酒仲間認定させていただいている方々から、酒やめてお子さんと野球やったみたいな話が出てくるとほんとにうらやましいですし、それができるうちに酒やめられるというのは、人生にとってめちゃ意味あることだと思います。

ですから、「取り返しのつかない」の前にやめられる人はやめたほうがいいですよね。エラソーで申し訳ありません……というか、老婆心ならぬ老爺心で言わせていただきます。

ともあれ、取り返しのつかないことは確かにある。でもまだ「できる」こともあります。というより、それが山ほどあります。それをちょっとずつやっていきたい、そのために人生サステナブルでいたいのですね。その中には、たとえばいろんな場所にサーフトリップしたいというレジャーぽいこともあれば、もちろん親孝行もあります。そして青春の志を実現してみたい、少なくともそのアプローチはしたいという思いが非常に強くあります。

酒やめたおかけで時間と経済力とエネルギーが復活しているので、今抱いている思いの何分の一かでも実現させたい。そのために人生サステナブルでいたいのです。もう死にたいとか粋がっている場合じゃなくなっているということですわ。

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