酒やめて、1662日。
夕食時の酒のために一日がある!?
随筆の名手だった内田百閒(1889~1971年)は元祖・乗り鉄とも言える存在で、用事もないのに汽車に乗ってどこかに行くことを「業」としていましたが、当然、夜行列車の中ではお酒を飲みます。その場合、列車内での晩さん(?)に備え、朝から何も食べず一日を組み立てていきます。いや、乗り鉄時に限らず、普段の生活も一日一食だったようで、これは現代における「16時間断食」のことを考えると、理にかなっていることかと思われます。
この百閒スタイルの場合、お酒を伴う夕食が一日の大きなイベントになります。これは私もそうでした。それが最大の楽しみで、そうした生活に何の疑いも持っていませんでした。お酒を飲み美味しいものを食べるために人生があり、そこに向かって一日過ごしていたのですね。でもこれだと、酒を飲むとき以外の日常がまったく楽しくないです(参考「飲んでいないときは土のなかのセミ? そんな状態はもうゴメンです」)。
断酒した今はそうではありません。16時間断食をしているので、何しろ8時まで、できれば7時までに夕食を終わらせなければならず、だからもちろん、お酒を飲みながら長々と、というわけにはいきません。その意味でも、16時間断食と断酒はきわめて相性がいいです(参考「酒飲まないで16時間断食すると、生活リズム上非常に都合がいいという話」)。逆に言えば百閒先生のようにお酒を伴ってゆるゆると食べる場合は、もう一日一食の一択になるということですよね。
「食」のプレゼンスが低下するといろんなことができる!
さて私の場合ですが、酒をやめてから不思議なことに、それまでとは打って変わって食に興味がなくなっていたので(参考「粗食に慣れることと、それによる時短もまた断酒の効用だと思う」)、下手すると毎日同じものを食べていたりもします。で、そういう生活を続けていると、「食事」というものがイベントではなくなります。
一方で、酒をやめるといろんなことができる……というよりも、今まで酒でできなかったことをするために酒をやめるわけですよ。もちろん断酒の一番大きな目的は「人生を破滅させないため」「人生を好転させるため」であり、そのためには、酒を飲んでいてはできないことをする、という細目があるという構造です。構えて言うことでもありませんが。
ともあれ酒を飲むと、飯に時間がかかります。冒頭に内田百閒先生の例を出しましたけれども、鉄つながりでいえば、時刻表トリックの傑作『点と線』には、主役の一人である鳥飼重太郎刑事(2007年のドラマではビートたけしさんが演じていました)の夕餉として、以下のような記述があります。
鳥飼重太郎は、湯気の出ている顔で食卓に向かった。晩酌二合を長い時間かけて飲むのが彼のたのしみである。雲丹、イカの刺身、干鱈、そんな肴が膳の上にならんでいる。今日は歩きまわって疲れた。酒の味がうまかった。
いやー、なかなかそそられるものがありますねー。でもまあ、量はこれだけなんですよ。そして酒もわずか二合です。なのに「長い時間かけて」なのです。鳥飼刑事にとってはまさに「イベント」です。昼間は一生懸命仕事し(この場合は捜査活動し)、夜は、それを癒すようにのんびり酒を飲む。緊張と弛緩ですが「昭和」な生き方でもあります。
でも今は、そういう時代ではないし、私個人的にもそうではありません。夕食は16時間断食のタイムリミット(?)も迫っていますので、ささっと済ませます。
こうしたことも「酒をやめても時間がわさわさ湧いてくる」の一環です。同時に食事というもののプレゼンスが日常の中で低くなるので、ますますお酒を飲まなくていいというサイクルになっていくのです。
食事をイベント化せず、プレゼンスを低くして、その代わりにやることをたくさん設けるというのは断酒の一つのメソッドだと思いますし、自然とそうなることでもあります。断酒者ならどなたでも感じていることかもしれませんが。
そしていつも書いていることで蛇足の部類かもしれませんが、酒を飲む代わりに、さらにはイベントとしての食事を楽しむ代わりになにかやる。その「なにか」は、たとえどんなことでも、それなりに脳汁を出してくれることがわかってきます。酒さえ飲まなければ。