酒やめて、1648日。
「聞く耳を持たない」は飲酒者特性!?
世の中には、「聞く耳を持たない」という種類の人間がいます。これはもともとの性向でもあるのでしょうけれども、当然ながら加齢とともに拍車がかかります。こういう人は会議などでもとにかく相手の意見を否定しますよね。「そんなのはダメだあ」が口癖だったりします。
と、ここまでは一般論なのですが、飲酒習慣がある人ほどそういう傾向が強い、というとあまりにも断酒者のご都合的考えが過ぎるでしょうか。その辺の正確なデータはもちろんないのですが、そのような傾向はあるような気もします。そういうことにして話を進めさせてください。これを読んでくださっている方の知り合いの中にも、あの人がそうだなと思う人がいたらその人の酒量や飲酒頻度を考えてみるのも、一つの楽しみになるかもしれませんね。そしてもし断酒の入り口にいるのなら、そういう調査・考察(?)も断酒モチベーションになるかもしれません。
ここからは断酒者都合ですらなく私独自の考え、すなわち自らの体験に基づくものなのですが、やはり大量飲酒者は、飲酒癖を他者から指摘されたくないわけです。よく言われる「俺はアル中じゃないキリッ」ですよね。これはアル中に限らず、飲酒者なら多かれ少なかれあると思います。お酒を飲むということがライフスタイルの一環になっている場合、それを否定されるとアイデンティティに関わる問題のような気がするからです。そんなことはまったくないのに。そして酒をやめた人間を見つけると、「お前はやめなければいけないけれど俺はまだ飲めるキリッ」という妙な自慢を始めたりします。これもアイデンティティと飲酒行為が一体化しているがゆえ、のようにも思います。
「酒さん」は人格(?)を持っているしか思えない!
要は、お酒を飲みたいがゆえに自己正当化するのです。そして、このブログでもよく書いていますけれども、その自己正当化が習い性になっているから、お酒を飲む以外の局面――仕事の会議などでもそれが出てしまう。その結果、社会生活との齟齬を生んでしまうということですよね。「聞く耳を持たない」はどう考えたって損ですから。この辺は自戒を込めて書いているのですが(苦笑)。
結局のところ酒というのは、そういうふうに人間の性向を自分に都合の良いほうに変えてしまうのです。まるで意思を持っているように。
ここで、その「酒さん」の立場になって考えてみると、酒を飲む、つまり自分を正当化しがちな人間ほど御しやすいわけです。どんどんどんどん飲ませることができます。酒さんにとっては、赤子の手をひねるがごとく、です。
「酒さん」という記しましたが、このように擬人化してもしっくり来てしまう。ただの物質なのに擬人化できる性格(?)を持ってしまう。すべてのドラッグの類に共通するものなのかと思いますが、考えてみればこれはかなり怖ろしいことですよ。縁が切れてよかったです。