酒やめて、1244日。
善意の石畳が、女子の就活を困難にした?
最近、仏教関係の方から聞いた言葉に「知恵の眼(まなこ)」というものがあります。昨今、流行りの言葉でいうと、やっぱり「クリティカルシンキング」になるのでしょうか。昨日書いた「自分軸」も同じですが、(オールド)メディアの情報や世の中の常識に流されるのではなく、自分で確かな賢さを持って物事を捉えていこうということですね(参考「「自分軸」をスポイルしてきたのはこれまではメディアだったけど、そのメディアのプレゼンスが小さくなった今、最大の敵は……?」)。
私は熱心な仏教徒というわけではないのですが、仏教の説話は、なかなか真実を突いていて味わい深いなあと思ったりもします。エラそーですみませんが(笑)。
しかし、本当に受け入れやすい教えだと思いますよ。逆に旧約聖書に出てくる神(ヤハウェ)なんか、モーゼなどの預言者に、かなりの無茶振りをしてますもんね。キリスト様もアラーの神も、ずいぶんと厳しいです。
その点、仏教の教えは、わりに日常ぽくて、しかも日常を生きるための真実のようなものがあって実用性が高いと思います。「知恵の眼」もまさにそうです。
でもって私が仏教説話の中で好きなのは「地獄への道は善意の石畳で敷き詰められている」というやつです。
憲法9条なんかは典型的な「善意の石畳」ではないでしょうか。その石畳の上を人民解放軍が進軍してきたらどうするんだと、百田尚樹先生じゃなくても思いますよ、普通。
まあそれはそれとして、私がこの説話で真っ先に思い起こすのは男女雇用均等法です。
男女雇用均等法施行までは、女子一般職というものがありました。そして女子が好む大手企業の事務職が、正社員として求職市場に大量に供給されていたのです。私の妹などは、いわゆるFラン大学出身ですが一般職で銀行に就職しましたから。やっぱりありがたかったと思いますよ。
そうした女子一般職が今、何に取って代わられたかというと「派遣」ですよね。それが誤解を恐れずに言えば、女子の地位を落としたような気もします。
では、男女雇用均等法を推進した人々は、貧困女子をつくりだそうと考えてやったのかといえば、そんなことありませんよね。とにかく男女同権ということで、善意で行ったことだとは思います。でも今のところは、裏目に出ています。
もちろん社会保障費拡大を企業が嫌って採用をシュリンクさせたなど(ここでも出ました、「若者が老人に奉仕する」の図ですね)、他の外的要因もいろいろあって、こういうふうになっているのでしょうけれども。
酒やめるとクリティカルシンキングに自信が持てるのだ
それはともかくクリティカルシンキングです。昨日も書きましたが、今ほどこれが大切になってる時代はないと思います。世の中が欺瞞に満ちていることがコロナで明らかになり、だからこそ自分を信頼し、自分で考えないとないとどうにもこうにもならないわけです。
で、私の場合ですが、酒を飲んでいた時代は、その「自分」がまったく確立できていなかったのですね。なぜなら酒を飲んでいる自分について劣等感を持っていて、「俺って、酒飲んでない時でも脳が酒に支配されているから、この脳で決断したことはたぶん間違ってるんだ」という思いが常にあったのですよ。理屈っぽくてすみませんが。
ですから自分のクリティカルシンキング=知恵の眼にまったく自信が持てず、自信が持てないことを基盤に人生を生きていました。これじゃ、あらゆることが上手くいくわけがありません。
それがですね、酒をやめると、どんな決断でも、酒に支配されてない頭で行ったのだという大いなる自信があるので、堂々と道を歩めるわけです(参考「酒やめて「わが人生に一片の悔いなし」を実感できた!」)。それが正しい道なのかどうなのかはわからないけれども、少なくとも地獄への石畳は敷かれてないと思います。