「免罪符」がない人生もいいもんだ。

酒やめて、2246日。

地味なお花見が定着!?

桜がいよいよ満開ですね。むろん場所によって異なるのでしょうが、我が家であるところの老朽借家に植えてある桜は、今現在八分といったところです。

そして世間一般の花見に関しては、今年は「復活」みたいな話も聞きますけれども、やはりコロナ禍を経て地味になりそれが定着していくのでしょう。コンプライアンスの向上あるいは厳格化とともに、静かに花を見るというスタイルが定着しそうではあります。

私の場合、もはや花見に誘われることもないのですが、飲んでいた時代はむしろ自分が企画する方でした。というのは、当然ながら「♪花見で酒が飲めるぞ飲める飲めるぞ酒が飲めるぞ」だからです。

飲酒時代は常に飲む理由を探していましたので、花見なんていうのはもうほんとに千載一遇のチャンスでした。というと、そんな理由がなくても飲んでたやろーと指摘されるでしょうし、まったくそうなのですが、ただしいつも飲むということに対してなんとなく引け目を感じていて、だからこそ花見は、ここぞとばかりに堂々と飲めるという点において、ありがたいイベントだったわけです。

つまり飲酒時代は、飲む「免罪符」みたいなものを常に探していたということです。これはすべての飲酒者に共通する心理なのかもしれません。

人生をさぼる免罪符を常に探していたのだった

例によって何を当たり前のことをおっしゃる向きもあるかもしれませんが、言いたいのはここからであります。

結局のところ、私の場合、飲んでいた時代は飲む免罪符だけでなく、人生をサボる免罪符を常に探していたような気がします。これは私だけなのかとも思いますが、あるいは共感してくれる人もいるかもしれません。

そしてこのことも、結局のところ酒に帰結するのではないかと考えます。これが酒のまったく恐ろしいところではあります。

どういうことかというと、「常に飲みたい→飲む免罪符を探す」が常態化すると、やがて「常にサボりたい→サボる免罪符を探す」というふうになります。いや、なっていました。上手く言えないのですが、酒をきっかけとして「免罪符」探しが、人生すべてにわたるようになるのです。かえすがえすも私だけかも知れませんけれども。

これって当然ながら、めっちゃ損失ですよ、今考えると。このような生き方でどれだけ損してきたかという話ですよね。

逆に言えば、今は酒を飲む免罪符を探す必要もなく、したがって人生の免罪符を探す必要もないので、なんにでも立ち向かっていける――というと大げさであり偉そうでありかっこつけではありますけれども、「(酒も飲めないし)しょうがねえやるしかねえ」なみたいなスタンスが人生をいい方向に導く――というと、これまたきれいごとのようですが、しかし、これはこれでラクだなあと思ったりする断酒者ではありますよ。

繰り返しますが、酒を飲んでいると、酒を飲むための免罪符を探すだけでは済まなくなり、免罪符探しが人生すべてを支配するようになり、それはまあ、地獄への道であるということを強調したいのでありました。

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