酒やめて、2270日。
SNSで「いやいや、酒しか楽しみがないもんで」が集まってくる
私は会社員時代、社内報の新入社員紹介の趣味の欄に「飲酒」と記したほどで、その意味ではタイトル通り、まさに「飲酒がアイデンティティ」でした。
まー飲酒というのはヒジョーにハードルの低い「娯楽」でするから、それにハマると、もうそれしかなくなってしまい、「飲んでることが生きること」「NO DRUNK NO LIFE」になりがちです。ついでに言えばハードルが高い「娯楽」ほど、大きな喜びを与えてくれるという真実に、酒やめてようやく気付いた次第であります(参考「酒やめて、「すぐに得られる快楽」では満足できない脳になってしまった件」)。
さて飲酒生活が深度化し、さらにSNSが浸透してくると、「飲んでることが生きること」の輩は、今度はSNSで仲間を見つけようとします。私などもそうしました。
ちなみに居酒屋評論で有名な太田和彦さんが居酒屋研究会を発足させたのは、「酒を飲む」それだけのために都合よく集まれる仲間がいればいいと考えたからだそうで、いやはや卓越した発想です。ただしその当時(90年代はじめ)は携帯はあったけれどもSNSはなかったので、その仲間はリアル知り合いに限られていました。
その点、SNSによる私家版(?)居酒屋研究会は不特定多数の人間が集まるわけで、むろん社会的属性はさまざまですが、「いやいや、酒しか楽しみがないもんで」は見事に共通していたのでした。
「酒しか楽しみがない」が人生を覆っていて、飲酒をもってアイデンティティにしている集団であり、そしてそのアイデンティティにみんなある種のひけめを感じているがゆえに、すぐに仲良くなったりできたのかもしれません。
しかしながら今考えれば、そのような集団のなかにも二種類いまして、すでに経済的にアル中になる自由を得ていた人と、私のような飲んでる場合じゃないやろーな人間です。
適性飲酒者に対する冷ややかな視点を断酒一里塚にすればいいのだ
ともあれ、こうしたタイプの集団とは別のかたちで「飲酒がアイデンティティ」を発現させる人間もいます。それは、いつも書いていますが、「俺は飲酒をコントロールできる( -`д-´)キリッ」→「だから飲んでもいい」→「俺は酒ともきちんと付き合える優秀な人間だ」という一連のアピールないしはマウントがアイデンティティになっているタイプです。
こういうタイプは、その輩が考える自分の社会的な立場と自己評価の高さ(=「特別な人間だ」)を背景にして酒を飲んでいて、本人が飲むだけならご自由なのですが、おうおうにして断酒erにちょっかいを出してくるので厄介です。
いわく「それじゃつまんねえだろ」とか「情報収集できねーだろ」とか言ってくるんですよ。面倒くさいです。
でもって、断酒初期の頃は確かにイラっときます。
ただし断酒が深度化(?)すると、それはとりもなおさず飲酒に関する知識が豊富になっていくことでもあるのですが、その上で飲酒と断酒にまつわる「構造」的なものが見えてくる。
そしてその視点から見ると、あーああいうタイプが一番ヤバい、「いやいや、酒しか楽しみがないもんで」タイプよりも全然ヤバいということが見えてくるのです。
むろん何も言いませんけど、ただ、溜飲が下がることは確かですねー(性格悪い)。
また、そうした輩についての「冷ややかな視点」を獲得することで、それを断酒の一里塚とするといったメリット(?)もあります(ますますもって性格悪い)。
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