「労働を癒すものとしての酒」というコンテンツは、明らかに衰退に向かっているよねという話。

酒やめて、1628日。

「酒を飲むために労働する」に疑問符!?

一昨日、「労働+酒」というライフスタイルの衰退についてちらっと書きました(参考「酒の周辺がざわついているようだけれども、飲酒文化はこれからどこへ向かうのか。余計なお世話ながら」)。ちょっと言い足りない部分があるので深掘りさせていただきたいと思います。誰にも頼まれてはいませんけれども(汗)。

新宿のベルクというお店の「酒に罪はない・労働者のささやかな楽しみまで奪って、感染対策と何の関係があるのですか?」という訴えが話題になりました。ベルクというお店には、私は入ったことはありませんが、前はよく通っていましたし、存在は知っていました。名店であることも。「労働者のささやかな楽しみ」すなわち仕事の疲れを癒すために一杯、というと、私が昔、まさにその目的のために(あるいは仕事で疲れてなくても)愛用していた場末のせんべろで、といったイメージがあります。が、それとは一線を画した雰囲気の店ですね。

それはともかくとして、これまでは、一日働き、酒で疲れを癒すというライフスタイルが確実にあったわけですよ。

もちろん今でもありますし、かつては私もそうでした。この一杯のために生きているってやつです。こういうふうに書いていても、それもまたちょっと魅力的にも思えたりします。いかんいかん。

でも、この一杯のために生きる、ということは、一昨日も書きましたが、飲む以外の人生の時間がつまらなくなってしまうのですよ。当然、労働ということも含めて。

労働の対価として酒がある、酒を飲むために労働する。酒をやめてから、私はこの命題(?)に疑問を持つようになったのです。もちろん断酒モチベーションを高めるために自分で思い込んでいるという側面もありますけれども。

そもそもこれって子どもが、勉強後のゲームを餌に勉強させられるのと同じじゃないですか。でもそのメソッド(?)じゃあ、勉強は楽しくないですよね。

そして大人になればそういう生活から逃れられると思っていたのに、大人になっても同じことをやっているわけですよ。それはやっぱり人生として辛い。

そして一昨日書いたことの繰り返しで大変恐縮ですが、若者の酒離れも案外無意識のうちにそういうふうなことを考えているのかなあとも思います。今は楽しみがたくさんあって、「労働の後の酒=楽しみ」は、時代にそぐわなくなっています。ましてや彼ら彼女らはストレス嫌い、メンタル損傷嫌いですから、なるべくそれを引き起こす場に近づかないようにしていて、酒を飲むとそういうことに巻きこまれやすいことを知っているのかもしれませんね。

仕事終わりの酒よりも、仕事そのものを楽しくしたい!

私の場合で言えば、飲酒時代は酒を飲んでるときだけが幸せだったけれども、今は、一日の、仕事をしている時間を含めすべての時間が幸せ、とは言えないけれども、少なくとも快適です。そこが私にとっての大きな転換です。

たとえば仕事をしている時間はだいたいにおいてそんなに楽しいものではないけれども、酒を飲まなくなってから、ちょっとは楽しい、ちょっとは高揚できる、すなわち脳汁の噴出を実感できるようになりました。これは日常生活でも同じで、酒を飲んでいた時につまらないと感じていた諸々のマターが、楽しいとまでは言わないまでもそんなに嫌じゃなくなりました。今の至上価値である「快適な生活」を毀損することもなく、むしろそうしたことが快適な生活そのものと思えるようになったのが大きいです。

まとめると、「労働後の一杯」のために生きていくというスタイルを離れ、一日のすべての時間を快適にするというふうに私の場合はなった。そういう人生もあるのだなあと、遅ればせながら発見したのであります。そして世の趨勢もそうなっているんじゃないかなあと、希望的観測を含めて思う次第であります。

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