酒飲んでいいのは、「一生安泰」か「人生捨ててるか」のどちらかだということがだんだん明らかになってきましたね。

酒やめて、1670日。

「昭和のお父さん」はアル中になる自由があった!

一昨日、「断酒は意志の力で行うものでは断じてない。しかし飲んでいる人を「ま~だ酒飲んでるの」と見下すのは断酒者の自由意志です」ということを書かせていただきました。ちょっと補足というか深掘りしたいので、続きというわけでもないのですが、関連して書かせていただきます。

このブログでもさんざん訴求(?)していますけれども、もう「僕たちにはアル中になる自由がない」のですね。高齢化とそれに伴う年金不全で「死ぬまで働け」の時代になっていて、だから飲んでる場合じゃないというわけです。

昔は一生懸命働いて子どもを育てあげ、それなりに資産を残せば、まあアル中になる自由があったのですよ。

私がそんなことを考え始めたのは、仕事仲間の父親の話がきっかけです。仕事仲間いわく、うちの父もさあ役所を退官してからは毎日朝から飲んでいたんだよねー、みたいなエピソード(武勇伝?)を聞き、考え込んでしまったのです。

その話を聞いたのは、23区内に立つ立派な一軒家でそのお父様の仏壇の遺影を眺めながら、です。つまり彼の父親は、そうした家を息子に残しています。そして息子であるところの仕事仲間は私立高校から私立美大に進んでいるので、その学費も負担してるのです。もう、ほんとにやることやったわけです。そりゃ退職してから毎日、朝から酒飲んだっていいでしょうよ。

それはライフタームとしてのことですが、一日の中でも、昼間は一生懸命働き夜は疲れを癒すために飲むというスタイルが昔は確立してました。終身雇用に担保されていたのです。パラレルキャリアだとかは考えなくてよかったのですね。

ところが今は、そうではなくなっているのはご存じの通りです。まさに飲んでる場合じゃない時代に突入しています。

もちろん、なかには「昭和のお父さん」に近い生き方をしている人もいて、私の友人にもいます。定年まで勤めあげることが確定していて、その前に子育ても終え、資産も築き、退職金もたっぷり(?)もらえるというパターンですね。そうした人はアル中になろうがどうしようか自由なわけです。うらやましいです。

「飲んでる場合じやない人を横目に」は、かなり有効です

さて、このようなことが「断酒」とどう結びつくかというと、自分が飲み続けていい人間かどうか、まず把握する必要があるということですね。私の場合、こりゃ飲んでる場合じゃないと把握したのでやめられたわけで。

あとは一昨日書いたことの続きになりますが、屈折した優越感を断酒モチベーションに変換するという方法があります。

周りをつらつら見回すに、アル中になる自由がある人ほど、実は堅実に生きていて(仕事仲間の御父上は例外になるのかもしれませんが)、その一方で、大変余計なお世話ながら、飲んでる場合じゃないように見える人ほど飲んでいるという状況があるようにも感じます。

そりゃまあそうで、飲酒には「不安な明日をダブルで飲み干す」@ユーミンという側面があるからです。

で、断酒モチベーションという観点から言えば、飲んでる場合じゃなさそうなのに飲んでる人を、相変わらず飲んでいるよなあ、と冷ややかに眺めるのも、陰険ではあるけれどいい方法かと。ほら、皆さんの周りにもいるでしょ、そういう人。そういう人を横目に断酒を始める、あるいは続ければいいということですよね。

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