「酒を購入する」行為の意味が変わってきた!?

酒やめて、3067日

酒は自分で買うもの……なのか?

スーパーに昼間行くと、たとえば大五郎の5リッターペットボトルだけを買っていく、あるいは乙類焼酎の2リッターパックだけを買っていくおっさんを定期的に見ます。私がことさらに注目しているのもありますが(笑)。

わかるよねー、であります。私もこの購入パターンはよくやっておりました。そこまで行かなくても、缶チューハイを2~3本(だけ)昼間に買ったりして、レジに並べていると、「今から飲むのかいいなあ」などと後ろのジジイに言われたりしたこともあります。これはスーパーではなく、酒屋さんでの話ですが。それにしても、まったく余計なお世話だ。てか、たぶんそいつも「経験者」なのでしょう。

でもって、このことでもわかるように「酒を買う」ってあまりお品が良い行為じゃないですよね。酒はやっぱり自分で買うものじゃないなあという思いを強くしてしまうのです。

つまり、酒は誰かが用意してくれるもので、それが正常な姿であるかと。この辺ところは、何を今さら大発見のように、という向きもあるかもしれませんが、ちょっとお付き合いください。以下、独自理論(?)を展開しますので。

「誰かが用意」というのは、要は外で誰かと飲むとか、あるいは家で飲むにしても、奥さんが、頑張ったお父さんに一本つけましょうみたいなかたちですね。そしてこのことと、冒頭で取り上げたように、自分で酒をいそいそと買ってきて飲むということとの間には、やはり大きな断絶があるんじゃないかと思います。

ペットボトルや缶が「酒屋の意味」を変えた!?

この辺には、文化的な考察(大げさ)も含まれます。

昔は酒屋さんは、飲食店だけでなく一般家庭に対しても配達が主で、いわゆる三河屋のサブちゃんパターンですね。ビールにしても日本酒にしても瓶だったから、というのも大きいでしょう。

そして酒屋さんという存在は、歴史的に町の名士が経営しているケースが多く、それは認可事業ということも当然あるでしょうし、税の代理徴収という側面もあったからだったと思われます。つまり「配達の時代」は、酒屋が街の一つの中心として機能していた。

ところが缶やペットボトルが中心になり、配達よりも購入が主になってくると、酒屋さんのイメージも変質していきます。つまり、昔の私のようなやさぐれ系が出入りするようになるのですね。

それを逆手に取って、店先で酒を提供するスタイルもありますが、それで大きな収益が見込める立地(後背地に三交代勤務の工場があるとか)であればいいけれども、そうじゃないと、私みたいなやさぐれ系を呼び込むだけの結果になりそうです。

その証拠に(?)、配達文化がない欧米では、酒屋さんが存在しているのは、やさぐれている地区の象徴だといいます。

酒屋の存在が、やさぐれを呼び込むということが、古くから知られていたわけであり、それは同時に、酒屋に酒を買いに行くことがロウワーな行為であることの証拠だったと言えるでしょう。

今は、規制緩和でコンビニでもスーパーでも酒を置いているので、その行為のロウワー濃度が薄まったようにも思えますが、やはり酒だけ買うと悪目立ちしてしまうし、冒頭に挙げたように「大五郎一本」だとなおさらです。

むろん、普通の買い物でそこに酒を混ぜ込むというスタイルだといいのかもしれませんし、先に挙げたように奥さんが買ってきてくれる場合、大丈夫(?)なのでしょうが、おっさんが酒を買うことに対する世間の目は、かなり欧米的になっているのかなあ、と、断酒er的には都合よく考えます。それを断酒モチベーションにするのもありかもしれません。

ともあれ、自分で買うと誰かが買ってきたものを飲むにはっきり線引きができてきている時代であることは確かでしょう。

原則として火曜日と金曜日の19時に更新しています。

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