酒やめて、1724日。
「死ぬまで働く」は、飲んでいては到底不可能!?
ちょっと前に「江戸時代の人が酒と存分に付き合えたのは、「短命」という究極の社会保障があったからなんですね」という珍説(?)を書かせていただきました。では短命ではなくなってしまった現代と飲酒生活というものは、はたして整合性が高いのか否かについて、今回は考察していきたいと思います。誰にも頼まれちゃいませんが。
基本的にこれから老いを迎える人の多くは、長寿命であるのにもかかわらず社会保障がはなはだ心もとない、という状況に置かれています。もちろん私もそうです。
このことが、「年金のほかに二千万貯めろやゴルァ!」+副業オーケー+70歳定年延長という施策にも顕われています。要は、死ぬまで働きなさいということがいよいよ現実になっているわけですよね。
それが嫌なら、年金以外にも寝ててもお金が入ってくる仕組みを現役時代に構築していく必要があり、それは酒を飲んでいるとなかなかできないということはいつも書かせていただいているので、ここでは繰り返しません。
ともかく社会保障が心もとない今、死ぬまで働く、あるいはそれに近いかたちになるとするならば、私の場合、もう酒を飲まないということがすべての前提になっているのですよ。将来設計に「酒抜き」が完全に組み入れられ、それでまあ何とかちょっとだけ先が見えているという感じですね。トホホではあるけれども現実そうです。
飲まないで不安を解消するか、飲んで解消するか
ですから、もしここで再飲酒してしまうと、そういう貴重な(?)「ちょっとだけ先が見えている」状態がガラガラと崩れてしまう。だからこそ、それが断酒モチベーションになっているという側面があります。
酒抜きで人生設計する。酒をこの先も飲まないことを前提に、すべてのことを行う。上からで申し訳ありませんが、こういうふうな「構造」をつくってしまうのも肝要かと考える次第であります。たとえば断酒貯金をし、それを投資に回すなどして、それがないと、この先、どげんもこげんもならん状態であることを自覚する、とかですね。
で、これまたエラソーで申し訳ないのですが、こうしたことを意識することは、いろいろ示唆に富んでいると思うのです。
どういうことかというと、そのような健気な(?)断酒者のエネミーである酒という存在は、そんな将来のことなどどうでもいいやんと常に囁いてくるわけですよ。そして実際、酒を飲むと、将来設計も、さらに将来に対する不安も何もかも忘れます。いわゆる、♪不安な明日をダブルで飲み干す状態です。
結局のところ、長寿命の現代にあっては、飲まないことを前提とした将来設計で不安を解消するか、飲んで不安を解消するかの二者択一になってしまうということですよ。一部の恵まれた(≒アル中になる自由がある人)以外は。