酒やめて、1208日。
コロナ禍が教えてくれた「メディアはまったくあてにならん」
クリティカルシンキングという言葉を最近よく聞きます。批判的精神と訳されるようですが、もうちょっと意味合いが広くて、要は自分の頭で考えようよってことですよね。教育現場でよく使われたりします。
なぜ教育現場で使われるかというと、そういうものを有することがこれからの世の中で大切になるから、という理屈です。
つまり、単に学校で良い成績を取るという指標、いい大学に合格するという指標でやっていては、学校を出てから立ち行かないということです。ただ、そう言われても困るよ、という学力秀才は一定数いるので、テストの成績で勝負したい人間の受け皿として公務員雇用は必要だという話を三日前にさせていただきました(参考「もうジジイは酒をやめ生活をミニマムにして、贅沢言わずひっそり生き、若者に道を譲ろうよというご提案」)。
さて、このクリティカルシンキングですが、今回のコロナ禍で、その重要性が身に染みてわかった人も多いのではないでしょうか。もちろん私もその一人です。
たとえばテレビ、新聞などの、いわゆるオールドメディアはもうまったくもって信用ならないということですね。メディアに乗せられて右往左往していたらほんとに不利益を被ってしまうことを、あらためて確認したかたちになりました。
たとえばマスクの件です。
メディアは連日連夜、マスク欠乏を煽り、返す刀でアベノマスクを揶揄し続けました。で、やっぱり危機感を持った人は多いと思うのですね。自粛にも関わらず通勤電車に乗らなきゃいけない人は、死活問題だと認識していたと思います。もちろん、マスクハンティングに精を出す暇な高齢者に対する敵意も醸成されたでしょう(参考「コロナ危機によって広く認知された「老害」と、これから老いる人が気をつけておきたいこと」)。
そうしたマスク欠乏を救い、市中に、買い占められていたであろうマスクを放出させるのに大きな役割を果たしたのは、ネット上の、あるいは口コミの「不織布マスク、洗っても大丈夫やで」という情報でしょう。もちろんアベノマスクを配るという「情報」(実際に届く届かないは関係なく)も、それに貢献していたと思います。
マスクの件でもわかるように、メディアは常に扇情的で話を紋きり型にします。そうした中で「アベノマスク」はいいとしても、「アホノミクス」みたいな下品な言葉を編み出して使ったりします。
それが下品だということはわかってると思うんですよ。ただ、なぜ使うかというと彼らはこう答えるでしょう。
そういうふうにわかりやすくするのが我々の務めだから。
そうしないと伝わらないということですね。受け手を完全に馬鹿にしてるんですよ。なぜそれがわかるかというと、その手のことを主張するメディア人が周りにいるからです。とんだ思い上がりなのですが、本人たちは結構真剣にそう思ってるのでまったくタチが悪いです。
自分で考えることを酒が邪魔するんですよ!
でも当然の話ですが、我々受け手はそこまで馬鹿じゃありませんよ。だからこそ今回、メディアの煽りに乗ったら明らかに不利益を被る、だから自分の頭で考えていこうと思ったわけです。
これは、学校現場でいうところの主体性を持って生きよう、自分軸を持とうということですよね。そして、そうした教育を受けた子たちが育ったら、「大衆は馬鹿」という文脈でやってきたオールドメディアは滅亡へと向かうでしょう。楽しみだなあ。
ともあれ先に記したように、高校生でいえば、教科のテストでいい点を取るという従来型の価値観だけにアディクトしていると自分軸が持てません。大人でもメディアの情報にアディクトしていると自分軸が持てません。で、お気づきの通り、そうです、昔の私のように酒にアディクトしてると自分軸が持てません。
アディクトする存在があると、それに身を任せてしまうからですね。アル中というか一般飲酒者でもそうですが、自分で考える前にとにかく酒飲んじまおう、になります。呑兵衛のよく言う「ままま、難しいこと言ってないで飲も飲も」状態です。
もちろん高校生からしてみれば成績と酒を一緒にすんなやでしょうし、確かにそうなんですが、何かアディクトするものがあることが自分を持てない最大の要因になるという点では共通しているわけです。
自分で考え自分で行動することが単なるお題目ではなく本当にすべての人にとってサバイバル条件になっている今、マジでアディクトしてる場合じゃないんですよね、やっぱり。