酒やめて、1878日。
インテリのための理屈を非インテリに適用してみると
一昨日、断酒大先輩・小田嶋隆さんの主治医である田中孝雄先生による「あなたはインテリだからアルコール中毒を治癒できる」という、断酒者にとって耳に心地よい一節を紹介させていただきました。
これについて小田嶋さんも、以下のように書かれていますね。
生活のプランニング一からすべて組み替えるということで、それは知性のない人間にはできない、と。
でも実際やってみるとそうでしたよ。だって、酒がない人生を一から設計し直す作業というのは、実際問題としてえらく人工的な営為じゃないですか。
とにかく自然に振る舞っていると飲んじゃうわけです。
(『上を向いてアルコール』より。改行は引用者都合)
で、インテリではない私のような人間にこの理屈を適用してみるに、そのベースには一昨日も書きましたけれども、やっぱり酒飲まない俺ってかっこいいみたいな屈折した優越感があると思います。
それを前提として、「生活を組み替えることができる」とは、生活の細々としたことに意義付け・意味付けをし、それを体系化していって、それに基づいて行動する、ということになるのでしょうか。
とまあ、上記のようなことに、私も酒をやめるにあたっては結構真剣に取り込みました。考察を深めることが習い性となっている=インテリの条件だとするならば、人生で初めてインテリぽいことをしたわけですね。
酒は日常から「考える」を奪ってしまうのだ
むろん私とて仕事をしていましたので、仕事をする時は「考えて」いました。でもそれ以外の時間はまるで考えていない、まさに思考停止して生きていたのです。ですからたとえば子どもに対しても、パパの言うこと聞いとけばいいんじゃあああ! みたいに接していました。子どもが何を考え、たとえば進路に際して何を希望しているかについて、何の洞察もしていなかったのです。おかげで大学進学に際しては、(私が薦める)大学学部への指定校推薦を蹴って、「本当に自分がしたいことのため」に文転受験する結果となりました。そこで、うちの子は自主性を発揮したのでしょうし、私にとってみれば「裏切られた」なのですが、それは深い考察しなかったゆえの自業自得なのでしょうね(苦笑)。
つくづく思うに酒というのは、そのように日常生活から考察というものを奪います。小田嶋さんも書いていますけど、生活においてお酒飲むことが前提となっている=酒飲むための周辺事情のようなことだけ考えているわけですから。まあもともとの私の性格もあったでしょうし、酒のせいばかりにしちゃいかんですが。
ともあれ、酒に溺れた生活をしているしていないに関係なく、今は日常生活でも、というか人生全般を自分軸を持って考えなければいけない時代に突入しています。一昨日も書きましたが、その意味では、みんなが「インテリ」にならなければいけない時代になっているわけですよね。
それには酒はまったくもって邪魔だといういつもの結論ですが。
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