酒を酌み交わし天下国家を論じる←これが決定的にアウトオブデイトである理由。

酒やめて、1880日。

前時代のインテリメンタリティには辟易としますわ

前回、前々回と「インテリだから酒やめられる」について書かせていただきました(参考「「インテリだから酒やめられる」@小田嶋隆氏の主治医←なかなかツボな理屈」「「断酒者=インテリ」という、非常に都合が良い理屈を、さらに深掘りしてみると」)。二回も続けて書いたのは当然ながら、断酒者にとって非常に都合のいい理屈……というよりも、これから人類と酒の関係を示唆することのようにも思えたからです。

今回もしつこいようですが、この件についてもう少し考察を深めてみたいと思います。

いや、昔は、もしかしたら酒とインテリは親和性が高かったのかもしれません。昔のインテリは酒を酌み交わし天下国家を論じたといいますからね。我々よりちょっと上の世代までは確かにそうだったのでしょう。

ただし、インテリ中のインテリである昔の一高生、今の東大生がどうだったかというと、これについては以前書かせていただいています(参考「断酒モチベーションは「玉杯」のなかにあった!」)。

さて、酒を酌み交わし天下国家を論じるという行為ですが、まあ、ただ論じるだけですよね。自称インテリが数人集まって「安倍ガー」とオタあげたところで、なんの影響力も持ちません。てか、なんでいまだに「安倍ガー」になるのかが意味不明ですが。自称インテリジジイの多くは「苦学してこそインテリ」という屈折した価値観を持っていますので、その正反対の安倍さんは気に入らないのでしょう(そうなのか?)。

ただそれでも大昔は、学生運動のような、実際に動かそうという動きもありました。

その結果はご存じの通りですが、しかし我々のちょっと上の世代までは、メンタリティはまさにその学生運動です。つまり、お上や権力に批判的であることこそインテリという拭いがたい価値観を有しています。そこから敷衍して、とにかくすべてのことを批判的に見ることが習い性になっています。仕事にしても「そんなのダメだあ」とまず否定から入りがちです。あ、いや、みんながみんなそうではないのでしょうけれども、私の周りを見るにつけそういう傾向は確実にあります。

そしてそれが嵩じて、賤金主義というものに至ります。「金のことをいうやつはろくな仕事はできない」というアレですね。だいたい仕事なんて金のためにやるのに、金のこと言わないでどうするんだというんだというのが、それより下の世代の一般的な感覚ですけれども。

社会的影響力を行使するのを「インテリ」とするならば

①苦学至上主義、②批判至上主義、③賤金主義、いずれもアウトオブデイトです。たとえば②についてですが、「そんなのダメだあ」から入る人間は、今やほぼほぼ相手にされません。あと、たぶん儒教の影響もあるのでしょう、④序列主義というものも存在していて、自分の社会的ポジション(の優位性)を確認するためだけに仕事する人間もかつてはいましたし今もいますが、やはり相手にされなくなりつつあります。

ともあれ、そのような前時代のインテリは、酒飲んで天下国家を論じていた、と。でもそれは社会的影響力をこれっぽっちも持たなかった。一方、今は、個人が社会に影響力を行使する方法がいくらでもあり、個人が社会を動かせる時代になっています。

そうしたときに、ほんとに影響力を行使しようと思うとやはり作業量勝負ということになりますよね。データとエビデンスを揃える必要があります。でも酒を飲んでいると、頭脳的にも時間的にも到底そんなことはできません。

最新型のインテリ=社会的な力を行使する野心がある人と規定するならば、そういう人は酒飲まないという論の帰結になります。理屈っぽくてすみませんが、そうなるのだから仕方ないです。

そういう点でも、飲酒行為というものを媒介として人類は分化を始めているのかもしれません。

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